書籍なんかを作っていると「一般」という読者層の考え方がありまして、ぼくが編集プロダクションにいた十年前ごろまでは「高卒程度の知識と理解力のある人」なんて考えていました。以下は、ぼくの付き合いの範囲での印象ですが、「一般読者」というものが、ぶっちゃけどんなものと考えられていたのかを、列挙してみます。
「高卒程度の知識と理解力」というのは、「特に苦労をしないで新聞が読める程度」と言い換えられたりもします。新聞には、けっこう基本的な科学の話でも解説が出てたりしますよね。「高卒程度」とは言っても、高校で習ったことを覚えているという意味ではないわけです。それは日常生活を送るなかで忘れられていることになっています。実態としては「知識面では高校入学程度」が想定されているような雰囲気があります。
しかも、ハードルは徐々に下げられています。ぼくが業界に入った20年ぐらい前は、使える漢字として「助詞や副詞以外では、常用漢字を含めるか否か」なんて話が企画によってはあったのですが、いまはもう基本的には含めない方が多いでしょう。線が引けないので「難読漢字や使い分けがややこしい漢字は、使わない」という抽象的な不文律が浸透しているようにも思います。
そして、「一般の読者」が具体的にどの程度の読解力や知識があり、どの程度に判断力を働かすかは、自分たちを基準に考えています。「オレが読んでわからなければ、読者にもわからない」「オレがわかるんだから、読者にもわかるだろう」というヤツです。
出版屋の大半は、根拠のある話として伝えるために必要な道具立ては、根拠を確認できるためのデータやオリジナルに遡れるようにするための出典、書誌情報などではなく、情報源の肩書き(誰が言っているのか)で「ほとんどの場合、十分だ」と考えています。その人がどれぐらい適役なのかは、自分たちにはわからないとサジを投げています(だから、すぐに「この人知ってる? どういう人?」と周囲に聞きます。まじめな人が調べ始めると、下手をすると要領が悪いと怒られます。いろいろなジャンルについて情報源=質問できる人をもっている人が、優秀な人です)。
グラフや表は「むずかしく見える」「固くなる」から、できれば使いたくないものです。イラストでの絵解きにしたがります。
逆にいうと、グラフや数字の並んだ表でありさえすれば、根拠を示せたと考えているようなところもあります。グラフや表だって校正しなければならないということを忘れている編集者やライターが無数にいます(ぼくも検算してなくて怒られたことがあります)。
ほとんどの編集者もライターも、高校はおろか中学での理科の実験や、数学の授業で習ったことをほとんど覚えていません(ぼくもです)。統計っぽかったり術語が使ってありさえすれば、根拠のある話なのだと考え、根拠があると「言っている人がいる」ということは、科学的な裏付けがあるということと等しいとなんとなく思っています(その点について深く考えたことはありません)。
「統計っぽかったり術語が使ってありさえすれば科学的なわけではないんだ」とか、そういうことに関するリテラシーみたいなものは、大学で理系の学問でもかじった人のうちの何割かぐらいしか、覚えていないし、そんなことを気にする読者はほとんどいないと考えています。なんでかというと、書籍の編集者だけでなく、新聞記者も雑誌記者も、そういう人が大半だからです。そうだな、体験的には現場の人間の7、8割は、そういう人って感じです。少なくとも過半数を割ることはない。
そういう状況ですから、実用書を作成するときに想定されている「一般読者」は、まあ科学に関連するほとんどのことは一から説明するのが基本になります。スペースがあれば「中学の実験で、こういうのをやりましたよね」なんて言って思いだしてもらうことから始めるわけです。「お勉強っぽくなる」と嫌がられることもありますが。
そういうイメージで行くと「一般の読者」が「科学と誤認する」のは、「科学だと誤認させられる」なんて話ではなく、そもそも区別をほとんどつけられない、ということになります。そこには関心がない、と言ってもいい。特に断りのない限り根拠のある話に決まっているのだから、科学用語らしきものが出てきたら、なんとなく科学の話、というよりも理科や数学の話なんだな、と判断して(というよりも、思って)しまう。
たとえば温泉の効能書きなんかは化学物質の名前が並んでますので、理科です。これはもう、どう考えても科学的な裏付けがあるに決まっている話だということになりますから、科学的根拠がないという話をするような場合でもなければそんなところは考えません。
血液型や星座なんかと性格の関係は科学的根拠がないということは多くの人が受け入れていますが、それは野暮な話なのでいつもは忘れていることになっていて、星座別の交通事故の遭遇率の話みたいに統計なんかが出てくると、やっぱり根拠があったんじゃねーのー、と考えます。
学者や研究者、有識者が言っていると書かれていれば、もちろん確かな話です。その人が理系の人なら科学的な話です。内容が、道徳教育の話であったとしても、「科学者が言うことは、きっと科学的な裏付けがある話なんだろう」という
「実用書の一般的な読者」は、日常的に楽しみのために本を読んだりするとは考えられていません。目を通す活字でまとまったものといえば、新聞や週刊誌が代表格で、よくて軽い小説やエッセイです。また、注意深く読むという習慣はありません。
ほとんどの「一般の読者」は基本的にメディアを信じていると感じているからこそ、自力で判断しないということに「されている」のだと思うのですが、自分たちに合わせて「道具立てがそこそこあればオッケー(根拠がある話)」という判断なんです。
ですから、誤読させないために、まじめな編集者はそれなりに苦労することになります。「論理的にその解釈はありえない」なんていう話は、おまじないにもならない。さらに、彼らに読んでもらって、しかも変な問い合わせやクレームが来ないためには、見出しを追うとだいたい理解できるような作りにしないといけない、という意識がワレワレ編集屋にはあります。
その反動か、こういうブログやなんかでは書き飛ばしになりがちなんで、要注意なんですけど(大汗
上述のような特徴は、主に自分たちの無思慮、無知、無定見の加減をそのまま読者に投影しているのですが、これってそれこそ世間の人をバカにしているのかもしれませんね。
しかし、「いや、そんな話を信じるってどうなの」とかいう話を知人の知人だとか地域の方々なんかとすると、あながち実情とずれているわけでもないな、なんて思うこともまた、確実にあるのです。
「留保や限定なしで書くと、読者に“科学的な(というか、合理的な、もっと言えば、ちゃんとした)根拠のある話だ”と受け止められる可能性が高いぞ」「だから、そのリスクを覚悟しないといかんぞ」というのが、ライター仕事や編集者として仕事をするときの私なんだな。
実際には、留保や限定付きの話のほうがよっぽどちゃんとした話だったりするのだけれども、まあ、そんなもんなのだ。
そういうわけで、赤の他人の書いたものや言うことについても、まったく同様に「留保や限定なしで書くと、読者に“科学的な(というか、合理的な、もっと言えば、ちゃんとした)根拠のある話だ”と受け止められる可能性が高いぞ」と言っちゃうのだな。
これは、職場での最初の上司に教育されたことのような気もする。
彼には「わからんことがあるときには調べろ」「隣の席の先輩なんて安直な相手ではなく、責任ある立場の人間に確認しろ」なんて言われたなあ。後の上司はこうではなく、「近くにいる詳しそうな人に聞け」「身近にいなかったら、詳しそうな人に電話しろ」ってなもんんだった。
まあそんな職場なので、一時期パソコン関係の話は全部わたしに質問がくる、とそういうことになったわけだ(それは関係ないか?)。