2007年12月29日

酒屋の若旦那と裁判

こういう経験をしたことがある。

ぼくがまだ学生か、学生をやめたばかりの頃かな(ってことは、20年ほど前のことだ)。酒屋の若旦那が実家に配達に来た。で、ばあちゃんか誰かと話をして、ぼくが法学部に在籍している(あるいは、在籍していた)ことを知ったらしい。そこで、ぼくにこんな話を始めたのだ。
知り合い(取引先の誰か)が、交通事故がらみで加害者として疑われていて、裁判になった。参考人かなんかとして出廷してほしいと言われた。これは出なければならないのだろうか、行かないと罰せられたりするのだろうか、というのだ。


確か、証人として裁判所から声がかかったとかいうのではなかったし、「罰せられたりすることはないんじゃなかったかなあ。ちゃんとした理由があって出られないのであれば、仕方ないわけだから」なんて答えた。すると「罰せられることがないなら行かない」という。
あわてて「いや、間違っているかもしれないから、ちゃんと裁判所に聞いた方がいいですよ。それに、お知り合いで、取引先と関係のある人のことなのであれば、仕事を休みたくはないだろうけれども、今後のこともあるだろうから都合をつけて裁判に行った方がいいんじゃないですか」てなことを言ったはずだけれども、もう遅かった。
「裁判所に聞くなんてとんでもない。いや、法学部の学生さんが言うなら間違いないだろうから、心配はしてない。仕事はなんとでもなるけれども、裁判なんかに関わりたくないから行かないことにした、ありがとう」なんて言って帰ってしまった。

■字引として利用される「他者の断片的知識」
若旦那は、ある種、「自分の考えについて、裏を取ろうとした」わけだ。この場合、裁判所には行かなくてもいいのではないかという推測が「自分の考え」なのだが、裏を取ろうとしていながら、正誤を確認するところから、支持してもらうことにポイントがずれてしまった(この点に無自覚かどうかはわからない)。

裏を取るにあたって、ソースとなったぼくについてはほとんど吟味していない。どんな大学に行っていたのかとか、法学部でどんな程度の学生だったかとか、ちゃんとした知識があるかとか、そういうことはおそらく関係ないのだ。そういう話題にろくに触れたこともないような自分や周囲の人間よりはましだ、とでも考えていたかもしれない。
しかし、権威だと考えていたわけではない。あるいは、考え方を聞きたいわけではない。そのことは、ぼくの後半のアドバイスはまともに聞いちゃいないことからもわかる。いわば字引(この場合だと、六法全書か?)の代わりにしただけなのだ。

その後どうなったのかは知らないし、正解がどうなのか、一度は調べたはずだが今となっては忘れてしまっている。しかし、そこはこの際どうでもいい。
若旦那にとっては、行きたくないという自分の意向がはっきりしている。さらに、このケースは若旦那にとって重要度が10点満点の7点ぐらいだったんじゃないか(ものすごく重要ではないが、判断を間違えると危ないかもしれないのでそれなりに重要とか、そんな感じ)。もっと重要とかややこしいと考えるようなケースなら、本を買ってきたり専門家に相談に行ったりしたかもしれない。しかし、この程度の重要度のときは、裏の取り方もこの程度でオッケーということだろう。
また、自分の意向に沿うようなアドバイスでなければ、そこは採用するか否かの検討もしない。そこには「ある程度は確からしい話が聞きたい」のだが、結論については「信じたいことだけ信じる」というようなところも垣間見える。

若旦那とぼくの話を無造作に一般化するわけにもいかないけれども、これは象徴的なエピソードのような気がする。
これ、「実はみんな、確からしい話がほしくて、大事な話ならそれなりに行動はしているのだ。ただ、それには手間も暇もかかるので、手軽なところで済ますことが多いのだ。別になんでも鵜呑みにするわけではないのだ」、言い換えれば妥当性評価とか重要度評価とか調べることのコスト意識とか、そういういう話に育ちそうな気がする。するのだが、今日はここまで。
posted by 亀@渋研X at 18:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 渋研X的日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 酒屋の若旦那と裁判
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック