そもそも吉岡氏が自分のWebサイト上で主張していること(今回の訴訟での主張そのものではないことに注意)を再度整理して、彼の論点について考えてみたりしようかなあにとりかかる。
あ、疲れたのと気分転換のため、「敬体(ですます調)」はもう終わり。「常体(だ、である調)」で行くことにする。
■まずは主張を整理してみる
ここで参照するのは「目に余る 一部大学人の無自覚なインターネット悪用」という文章( www.minusionwater.com/hihan4.htm )。
ここで氏が書いていることをできるだけ文章の順番を維持して要約すると、およそ以下のようなことになるだろうか。
- 大学のサイトに教員が個人ページなどを置くことは「研究や教育に役立てるため」という目的であれば構わない
- 「社会のいろいろな活動を、平気で名指しで批判すること」は上記の目的には合致しない=「固有名詞を上げての個人攻撃や社会攻撃は、大学に与えられた ac.jp から発信すべき情報ではない」
- 3つの問題サイトがあり、「その議論は間違いだらけである」
- ドメインがac.jpであるページを「学外者が勝手に管理しているのは異常だ」
- 上記問題サイトに設置されている掲示板では、「対等でフェアな議論はできない仕組みになっている」
- クレームは公開するといいながら、吉岡氏による批判を公開しない
- 「大学が個々の教員の言動に責任を持つことはない」という方針自体は問題ではない
- ただし、「異常な行動をとる者に対しては、大学の責任でなんらかの処置をとる」のが当然
- ただし、大学のサーバー以外でやるなら許容される
- 「何の利害関係もない者」の「固有名詞を上げて」「公開の場で」批判する行為は「攻撃」「個人攻撃や社会攻撃」であり「社会人として異常な行動」である
■論点はどこにあるか
主たる論点だけを取り出してみよう。
- 公開の場で利害関係のない相手を名指しで批判してはいけない。それは攻撃であり、社会人として異常な行動である。 → 上記のような批判は、大学のドメインでやってはいけないが、外でやるのは勝手だ。
- 大学のページを「学外者が勝手に管理しているのは異常だ」
- 「対等でフェアな議論はできない仕組みになっている」掲示板はまずい
- 間違った議論がなされている
- 「大学が個々の教員の言動に責任を持つことはない」という原則は構わない
攻撃であり、社会人として異常な行動なのであれば、どこのサイトでやってもいかんだろう。これは書き間違えと考えるべきだろうか。
b.については、逆に言えば、委託を受けるなり、合意のうえでならよいということになる。それならば、問題サイトとされたサイトでの事実関係が問題になる。
c.は、掲示板の設置そのものがだめだということではなく、対等でフェアな議論ができるならよいということのようだ。これも実際に対等でフェアな議論ができるかどうかが問われることになるだろう。
d.は、そもそも大学のサイトで固有名詞を挙げた批判をしてはいけない、「しかも」ということなので、「間違っていなければよい」とはならない。ただし、「間違っているかどうか」は論点になるだろう。その点は、実際のその議論なり主張なりが間違っているかどうかが問題になる。
e.もちょっと意外だ。であれば、固有名を挙げた批判が、例外を適用すべき常軌を逸した行動なのかどうかが論点になる。固有名を挙げた批判が非常識な行為でないとなれば、大学がなんらの対応をする必要はないわけだ。
■最大の論点はどこか
興味深いのは、御茶大を訴えている件では、彼の主張は必ずしも上記と同じではないらしいことだ。時間の経過とともに意見が変わったり、裁判では戦術上の観点から、自分の主張の一部しか出さないということはあり得る。範囲を広げるというか、より強い主張にするということもあるのかもしれない。果たしてそういうことなのか?
ここまで膨大な量の文字を費やしてあれこれ考えてきた、「匿名で投稿可能な掲示板」があることは、ここでは問題とされていない。「個人ページの管理責任は一般に大学にあるかどうか」も問題とされていない。「間違った主張がされているかどうか」さえも、少なくとも主眼とはされていない。
一般論としての、ここでの最大の論点は「固有名を挙げて批判をすることをどう考えるか」だろう。
もちろん、いくつかの事実関係は裁判をするなら大きな問題になることだろう(実際に訴状で触れられているという意味ではない。その点の照合をぼくはしていない)。しかし、事実関係の確認はぼくにはできないし、一般論にはならない。したがって、ここではざっと印象を述べるだけにしよう。
b.については吉岡氏の認識が間違っている可能性が高いと見ている。「水商売ウォッチング」が学外から問題にされるのはこれが初めてではなく、これまでに富永研究室と天羽氏の関係や、なぜ天羽氏があのサイトをあそこに置いているかは何度も語られている。「勝手に」ではないということは、かなり知られた事実なのだ。
また、c.「対等でフェアな議論ができる」掲示板かどうか、d.議論そのものが間違っているかどうか、という点についても吉岡氏に賛同はできない。
ぼくの印象では、かなり辛抱強く「対等でフェアな議論ができる」掲示板であろうとしているし、議論そのものが間違っている場合には、周囲から適切な修正意見が述べられ、合理的根拠をもって判断ができないような問題についてまで敢えて判断を下すことは、まずない。
この点は誰でも実際に掲示板やコンテンツを見ることができる。ある程度は自力で判断できるだろう。
■直接の利害関係がない相手を、固有名を挙げて批判をすること是非
さて、最大の論点に戻ろう。
直接の利害関係がない相手を、固有名を挙げて批判をすることは、
あ)攻撃か
い)社会人として異常か
う)大学のサイトで行うのはふさわしくないことか
え)大学が介入してでもやめさせるべき行為か
お)直接の利害関係があればよいのか
というのが論点だ。
ごく常識的に考えると、こうなるのではないだろうか。
あ)攻撃か → 攻撃ではない
い)社会人として異常か → 異常ではない
う)大学のサイトで行うのはふさわしくないことか → そんなことはない
え)大学が介入してでもやめさせるべき行為か → そんなことはない
お)直接の利害関係があればよいのか → むしろその方が慎重になるべきかも
「批判」というから話がわかりにくくなる部分があるかもしれない。ニュートラルに「論評」とか「評価」と読み替えてみよう。固有名を挙げて論評や評価すべきでないという人はいるまい。ということは、肯定的に採り上げるならよいが、否定的に採り上げてはいけないということになる。これは理解に苦しむ。なぜなのだろう?
文芸作品などの場合を考えてみよう。その作家の本が売れなくなり、出版社や作家が打撃を受けるからというので否定的な論評をしてはいけないという理屈はない。根拠のない非難や誹謗中傷の場合は名誉毀損なりで損害賠償なんていうこともあるかもしれない。しかし、根拠のない非難や誹謗中傷と否定的な論評は、まったくの別物だ。
企業や製品、サービスなどの場合はどうだろう。その企業が経済的な打撃を受けるから、という理由が想像できる。しかし、問題がある企業や製品、サービスの問題点に言及しなかった場合は、その利用者や購入者が打撃を受けるではないか。しかも、場合によっては生活を破壊されるような打撃を受けるかもしれない。したがって企業側は、その経済活動や社会活動に一定の責任を負うことになる。
とすると、文芸批評などの場合と同様に、根拠のない非難や誹謗中傷かどうかが問題なはずだ。
つまり、直接の利害関係がない相手を、固有名を挙げて批判をすることは、攻撃でもなければ社会人として異常なことでもない。根拠のない非難や誹謗中傷が許されないだけであり、間違った指摘や論評が行われているかどうか「だけが」問題になるはずだ。
適切な批判であっても、大学のサイトでは行われるべきでないのか。これは意見の分かれるところだろう。ただし、「3」までで検討したような「大学の意見と勘違いされる」などという話ではなく、「大学のサイトのように、一定以上の影響力があるところで」という文脈で考えるのが順当だろう。というのは、ここでの吉岡氏の主張は、大学のサイトに研究者たちの個人ページがあってもよいのだし、そこに大学が介入するかどうかは、それが非常識かどうかにかかっているからだ。
ちなみに、裁判ではここが論点になってない理由は、別に勘ぐりではなくわかる気がする。そんなところで争たって水掛け論になるか、「間違いを指摘するのは公共の利益になる。したがって、主張が間違いかどうかが論点になる」なんてことになって、吉岡氏が得るところはあまりないものね。ぼくが吉岡氏でも、そういう論法は採用しないと思う。
閑話休題。
ここまでの考察が間違っていなければ、直接の利害関係がない相手を、固有名を挙げて批判をすることは、大学が介入してでもやめさせるべき行為だということには、ならなくてもおかしくない。ただ、影響が大きいからやめるべきだ、というような考え方はあるかもしれない。
影響の多寡を基準に考える場合、大学のサイト以外についても同様に考える必要があるだろう。研究者等が実名で身元を明かしている場合、下手をすると大学のサイトよりも影響が大きいことだってあるのではないか。スターというかタレントというか、注目度の高い学者や研究者が存在するではないか。彼らのブログなどは、大学のサイトなんかよりアクセス数もよほど多いだろう。どちらの影響力が大きいかは、一概に比較できないとしても、影響力を理由にして外部の個人ページでならよいということにはなりそうにない。
では、出版物でならどうかという話もあり得る。ここではWeb以外は論点になっていないようだし、ぼく自身は出版物でも「間違った主張かどうか」以外は問題にするに当たらないと考えているのでスルーする。けれども、本当にスルーしていいのかね。Webよりも影響力が大きい可能性はあるんだけどな。
ここまで考えてきたことを振り返ると、「肯定するにしても否定するにしても、固有名を挙げた論評は、影響の大きさを考えて慎重に」という以上の基準はあり得ないのではないか。そして、個々の論評の内容が適切か否かこそが問題にされるべきだろう。
また、慎重であるためには、よりオープンな場で議論が進められるべきだろう。
ひょっとすると、慎重であっても間違えては意味がないなどという意見もあるかもしれない。そもそも学者は現実世界の出来事について論評してはいけない、というような意見さえもあるかもしれない。
ただ、ぼくはそうは考えない。たとえば裁判の場では十分に容疑を証明できない事柄は「疑わしきは被告人の利益に」だが、一般社会では「怪しいかもしれないものについては、眉にツバをつけておく方が安心だ」と考えるからだ。
■おわりに
そろそろ終わりにしよう。
ちょっと問題サイトのひとつとされている「水商売ウォッチング」を例に考えてみる。
あのサイトで採り上げられている水がらみの製品群は、「この広告の原理説明はおかしい。ただし、製品の効果そのものを否定するものではない」といった論評や「もしもこの広告にあるような原理に基づいて作ったものだとメーカーが言うのであれば、広告にうたわれているような効果が望めなくてもおかしくない」といった論評を受けていることが多い(実際にサイトを訪れて確認してほしい)。
仮に、広告に使用されているロジックを説明する際にニセ科学ということばが使われているとしても、話の本題はニセ科学かどうかにはない。ニセ科学かどうかが問題の本質ではなく、構造や原理などが正しく説明されているかどうか、合理的な根拠があるという意味で説得力があるかどうかが本質のはずだ。
それにもかかわらず「この製品の効果を否定した」「ニセ科学と言った」「営業妨害だ」などといった受け止め方しかできず、より適切な広告表現や製品開発を模索できないようならば、それはやはりメーカーや企業としての責任をまっとうできていないということではないだろうか。
もしも上記のような論評が間違いだというのであれば、それは「この広告の原理説明は間違っていない。間違いだという指摘は、こういう点を勘違いしている」などというのがまともな反論ではないか(これなら、事実誤認による名誉毀損で訴えることだってできるだろう)。あるいは「広告は間違っていたが、製品はまともに開発されていて、正しい説明はこうだった」というようなことであれば、問題がなくなる。
さらに「効果はこういう方法で確認されている」という主張ができ、それが十分に説得力のある方法であって、広告もその線でできていれば、言うことはない。まさにどこに出しても恥ずかしくない広告と製品だ。
ああくたびれた……。
大学のサイトというのは、そういう条件をかなり満たしていると言えるでしょう。研究者は相互批判に慣れています。殺伐としてるというか、ネットでいう「モヒカン族」的というか、間違ったことを言っていたら、即座に同僚先輩や外来の「その話題に関心のある人」などから指摘されることでしょう。
でも、外部サーバーなどで展開している言説は、人気のある学者や研究者を除けば、大学のサイト内での発言よりも見逃されやすいのではないでしょうか。
「固有名を挙げての否定的コメントなんかしちゃいけない」という意見は、ネット世論的には、ある程度「あり」な意見なのだろうとは考えています。しかし、これはある種の文化的衝突だったり(個人のブログは独り言みたいなものなのだから、否定的に言及するのは「言論の自由を奪うものだ」とか「マナー違反」だとかいう意見が確かに存在しますから。ぼくには理解できませんが)、評価・評論するということ自体への無理解だったりするのではないかとも、考えています。
原告提出書面リスト(i-foe.org, Freedom of Expression in the Internet:平成19年(ワ)第1493号 損害賠償等請求事件)
http://www.i-foe.org/h19wa1493/suitor/index.html
この資料は被告側というかapj氏側が公開しているものです。「資料のいくつかはOCRでテキスト化しているため、誤変換が混じっているかもしれない」そうです。
裁判だと「争点」は、原告が問題としている部分、被告が反論のために採り上げた部分など、当事者が「ここ」とピックアップした論点のみに絞られるものでしょう。ですから、仮に訴状自体にどういう突っ込みどころ(たとえば現行法との不整合や論理的不整合、事実誤認などなど)があったとしても、争点とされなければ不問にふされる、という原理だと理解しています(違ってたら、誰か突っ込んでください)。
しかし、この渋研ブログでの一連の関連エントリでは、そういう意味での争点については全然話題にしていません(だって、「大学に匿名で投稿可能な掲示板を置くことの適否」から話が始まったんだもん)。
というわけで、訴訟自体に関心を抱いていてここにたどり着いた方は、下記(上記訴状の上位ページ)あたりをご覧になるとよろしいかと思います。経過なども読めます。
平成19年(ワ)第1493号 損害賠償等請求事件
http://www.i-foe.org/h19wa1493/
なお、論点が違うこと自体は、エントリでも触れたようにおかしなことではありません。もしもそこを問題にするなら、最低でも「どう変わったか」を検討したうえで、どういう理由があればそのような変化があり得るかを考察する、という手順になるのではないかと思います。