紹介されている作文は、赤木かん子・編『日本語ということば - Little Selectionsあなたのための小さな物語 15』(ポプラ社 2002年5月)という本に掲載されている「『あまえる』ということについて」という作品だ。
コメントで言及されていたので、同じ作文を紹介していたもっと以前の別の方のエントリも読むことができた。だからここでは2つ並べて紹介してしまおう。
小学校2年生の作文に泣かせられたよ。(Something Orange 2008-01-05)
「『あまえる』ということについて」を読んで(メロウマイマインド 07年05月15日)
もっとも、両方読んでもこの作文のほんの一部しか読めない。総量は(おそらく四百字詰め原稿用紙に換算して)45枚分というから、半分にも満たない。
後者のエントリは話題を呼び、〈「『あまえる』ということについて」を読んでを読んで〉〈〜を読んでを読んでを読んで〉〈〜を読んでを読んでを……〉という調子で多くの言及エントリを生んだようだ。ググるとちょっとビビる。
はてブのコメント群の話題は、およそ下記のように分類できる。
- オトナの手が入っているのではないか
- 小2でこういう文章を書けるとはどういう子どもなのか
- いい話だ、泣いた。小2なのに自分よりもオトナだ。すごい
TAKESANさんははてブのコメント群を「想像力豊か」とお書きなんですが、えっと、皮肉……ですよね?(^^;;
コメント群を読んだぼくの感想は、「みんな、作文には/オトナの手出しには/宿題には/マクドナルドには/etc./いろいろ思い出があるんだなあ」でありました。ぼくだってありますもんね。
で、あれですよ「個人的な体験の一般化」って、ふつうのことなんだなあ、って。
あ、いや、自分でも自分の記憶をはじめとした「知っているつもりのこと」と引き合わせて考えることしかできないです(汗)。だから自分を棚に上げるつもりはありません。でも、それはそれとして、それでドジった経験も多々あるので(大汗)。
あと、「信じたいことを信じる」「手っ取り早く答えが欲しい」「感動したい」のサンプルが見事にたくさん並んでるみたいに見えるなあ、って。そうそう。「傷ついている人(あるいは『傷ついている人に分類されたい人』)って、多いのだなあ」とも。
ブクマのコメントって、短いから短絡的な表現になってもしょうがないって部分もあるのでしょうけど。
作文そのものを(部分的だけど)読んで思ったことと言えば、
- ウチの二女、作文が嫌いで泣いたなあ。
- うちの前にふたりで座って、作文についてお話ししたのって、ちょうど2年生ぐらいだったか?
- 子どもたちの低学年のころの内心は、わからんかったなあ
- 真偽のわからん話は、どう考えてもわからんなあ
- 自力でまとめられるかどうかはともかく、これに近い知見にまで達する子どもはいてもおかしくないんじゃないかなあ
- 体験としては切ないなあ、つらいなあ
- 親御さん、一緒になってこの作文を作ったんだといいなあ
- toshi先生とかfilinion先生とか、どういう感想をもつんだろうなあ、ちょっとだけ訊いてみたいなあ
なんて感じでしょうか。ぼんやりと、ですが。
改めて、オトナの手が入っているかどうかを考えると、やっぱり、小2で独力で45枚にわたってこの調子で書き上げることができるのは「希有だ」とは思いますから、そこに足を取られた予断も働いてしまいます。しかし、このテーマの文章を、もしも親か先生が手を入れた(あるいは部分的にであれ書き直したり捏造したりした)のだとすると、大変な信頼関係のうえでの共同作業か、さもなくば鬼の所行かどっちかかもしんねえ、とは思います。
あ、今気づいた。オトナの文章だって、ふつうは編集屋が原稿整理とか、ヘタすればリライトしますよ? そりゃ文芸作品は、手は入れませんし、作文コンテストの入選作だと「最終的な選考委員は」基本的にいじらないだろうなあ、と思いますけど、その手前はどうだかわからん。マンガのコンテストだと掲載前に手を入れさせられることも多々あると聞いています。もちろん商品にしようってときは方向性が違うからそういうことが生じるのだとは思いますけどね。
ちなみに作文が掲載されている本はこんな本でこんな編者。
商品の説明ポプラ社のサイトで検索すると、もう少し詳しくわかります。そもそもがこういうシリーズ(すんごい多彩!)であり、さらにこの巻は↓こういう主旨。
内容(「MARC」データベースより)
おもしろくて読みやすく、そして深い中・短編に解説をつけ、若い人たちむけに編んだ短編集シリーズ。15では久世光彦の「私立向田図書館」など、日本語について書いてある文章の中から読みやすく楽しいもの8編を収める。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
赤木 かん子
児童文学評論家、子どもの本の探偵、図書館棚づくりプロデューサー。1984年、子どもの頃に読んでタイトルや作者名を忘れてしまった本を探し出す「本の探偵」でデビュー。以来、子どもの本を中心に、本や文化の紹介、書評、講演など、さまざまな分野で活躍。1999年から本格的に取り組み始めた、学校図書室棚づくりプロデュースで、全国の学校図書室が活性化しつつある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
丸谷才一、寺山修司、橋本治――日本語の達人が鮮やかな語り口で綴るエッセイなど。気楽に日本語のおもしろさを堪能できる一冊。いやあ、ものすごい面々とともに並んでますね……。
(略)
目次
私の口の中のアイウエオ−橋本 治・・・・・・5
ウナギ文の大研究−丸谷才一・・・・・・21
「元祖ゴキブリラーメン」考−千野栄一・・・・・・51
会話の名文U−鴨下信一・・・・・・67
私立向田図書館−久世光彦・・・・・・77
市街魔術師の肖像−寺山修司・・・・・・89
桂文樂の至福の日日−矢野誠一・・・・・・105
「あまえる」ということについて−中村咲紀・・・・・・119
解説−赤木かん子・・・・・・162
http://www.poplar.co.jp/shop/shosai.php?shosekicode=8820015
こういう場合、その本のなかで、どういう文脈で紹介されてるのかってだいじですよね。単に「小学生のすてきな作文を紹介します」ではなかろうと思うのだけど、そこに詳しく触れた紹介は見つけられなかった。唯一見つけたのは下記。
日本語ということば(KONO's Diary-休むに似たり 2007-05-28)
本書の編集者、赤木かん子のコメント。うむむ、こ、こんだけ? これで全部なのかな。まあ、単に「若い人に、秀逸で味わい深い日本語の文章に触れてほしかった」ってことだと思えます。私はずっと「セロひきのゴーシュ」はよくわからない話だと思っていたが、この中村さんの作文=解釈? を読んでやっと納得できた。というわけで中村さんにはとても感謝しているし、ありがたくも思っている。ただひとついまだにわからないのは、この作品がなぜ"最優秀"ではなく"優秀作品"にしかならなかったのか、である。[日本語ということばより引用]
そこに「小2でこんな」という思いがなかったとは言えないけど、主眼はそこじゃないですよね。「日本語」ということで言えば、「漢字が使えなくても」とか「語彙が多少貧困でも」とか、そういうことは、あったのかな、なんて思います。でも、そうだとすると、そこら辺はあんまり気づいてもらえてないっぽい。
ちなみに「なぜ"最優秀"ではなく"優秀作品"にしかならなかったのか」は、素直に考えれば「より優秀な作品があったから」のはずで。赤木氏が最優秀作品も読んだうえでこの疑問を書いているのだとすると……さあ、赤木氏はなにを疑ったのでしょう。それも考えたってわからないよね。
ところで、編者の赤木かん子、「本の探偵」出身だけあって(ってのも変か?)、おもしろそうな本をいろいろと編纂したり書いたりしておいでです。うーん、「調べ学習」の本とか「自然とかがくの絵本 総解説」とか、ちょっと漁ってみたくなったなあ。
http://goodmusiccd.com/books_あかぎ%20かんこ_1.html
#あ、このエントリのタイトルは、ただの連想ゲームです。
#作文のテーマが「甘え」だったので土居健郎『甘えの構造』を思いだしちゃって。
#くすぐりとしては成功してないですね(汗
ぼくは昔から過去を振り返る子どもだったせいか、今はもう思いだせなくても「あの頃はまだ幼稚園でのエピソードを覚えていた」ということや、中学ぐらいのときに思いだそうしたら、もうエピソードとしてではなくぼんやりとした1枚の写真のようにしか思いだせなかった、とか、親から聞かされたことや写真で見たことが体験としての記憶になっていることに気づいてちょっとびっくりした、なんていうことは覚えています。
後年になってもエピソードとして自分で語っていた話(そういうことをしていたんですよ。我ながら変な子どもだ)だと、いまも記憶していて再話できそうな気はするのですが、それが本当の記憶か、親や写真に由来する記憶か、そこはどれもあいまいになっています。
僕はむしろ、この作文の背後に、これだけの膨大な「アシスト」を入れずにはいられない先生の「宿業」を見てしまって慄然とします…。実は、ちょっと「奇跡の詩人」の子供のお母さんを想像してしまいました…。なんて「心にへんなもの」がたまりまくりなんだ俺。
ぼくもあそこまで考えを深めるには(しかも、必ずしもひとりよがりにならずに)、書物であれ大人であれ仲間であれ医者であれ、対話が必要だろうと思っています。
もしもそうだとすると、あれは「自分の体験(しかも、できれば否定したいに違いない疎外体験)を、いかにして受容したか」の物語なんですよね。その意味では、あれはある種のカウンセリングの記録ではないか、とぼくは考えています。
もちろん考え過ぎかもしれませんが。
filinion先生の想像が当たっているのだとすると、これは「母親の受容体験の物語」であった可能性もあるんだなあ。
それにしても、どうしても、子どもに自分の思いを投影して「こう考えていてほしい」なんていう欲望が大人にはあるのかなあ。あるんだろうなあ。