- ニセ科学問題を扱う者は、非科学や未科学とニセ科学を分類している。ニセ科学とは「科学ではない(のに科学を装う)」というのだから、これは非科学か未科学である。ニセ科学という概念が成立しない。
- ××を科学的主張と勘違いする人はいないだろうからニセ科学に分類するのは適切ではない。したがって「××はニセ科学」だという批判はおかしい。すべきではない。
- ニセ科学か否かという判定は、実証的な手法によっていない。したがって主観的な批判にすぎない。
こうした「ニセ科学批判」批判が、それなりにもっともらしさを持っているように見えるのだとすると、それは“より緻密な定義や、前提の誤った適用の可能性などを論じる論考がアカデミズムとしての〈「ニセ科学」学〉みたいなものに見えるから”ではないだろうか。
おそらくは、そんな〈「ニセ科学」学〉を志向している人は、どこにもいないのだが。
さて、ではこうした主張の前で、先の「見分け方」は役に立つだろうか。
確かに、自分の考えを構築するにしても、それを述べるにしても、慎重な態度が求められる。そうした姿勢ゆえに「なにがニセ科学か」という問題に関心を払う必要はある。
また「ニセ科学だと言って批判する対象としては、××は不適切だ」という部分だけ取り出して考えると、定義の問題として重要なポイントと映ることもあるだろう。
そうでなくても学問的に体裁(というと語弊があるが)が整うということは、論としての緻密さを増すことでもあるので、まったく無意味なわけではない。
しかし、前述のような「見分け方」の前では、たとえば「『科学用語のように見えるかもしれないが、実際には科学用語ではないような語彙』を用いたのであれば、それは非科学であってニセ科学ではない」などという異論は詭弁でしかない。「科学と紛らわしいか否かについては、それは誰にとってなのかなど、議論の余地がある」などということもあり得ない。ここで解釈の余地がある部分があるとすれば、それは徹頭徹尾「主張Aは科学的な裏付けのある知見と言えるかどうか」だけだ。
そこに主観の入り込む余地は、かなり少ない。「科学的知見と言えるかどうか」の大きな部分は素朴な手続き論だと言える。そして、その点については、多少なりとも科学に関心を持つ人間には共通の判断基準となっている。しかも、それは(社会全体では十分ではないかもしれないが)それなりに広く浸透している。よほど専門的あるいは先鋭的な問題を含まない限り、検討する人間には事欠かないだろう。
*
このように考えてくると、少なくとも、いまのところ〈「ニセ科学」学〉を成立させる実用的な価値はなさそうだ。また、冒頭で述べたような「ニセ科学批判」批判の主張は
・トリビアリズム(瑣末主義)
・論理ゲームとしての完成度に関する評論
・論点のすり替え
といったものにしか見えない、と言ったら言い過ぎだろうか。
ここまで書いてきて、こうした批判は優先順位問題の一種(鏡像?)なのかもしれないとも思う。
たとえば「血液型性格判断はニセ科学ではないので、ニセ科学として批判するのは不当だ」という話は、「血液型性格判断をニセ科学だというなら、温泉の効能書きもニセ科学のはずだ。なぜ温泉の効能書きを批判しない」という話とうまいこと対をなしているように思える。
とか書いていたら、「ニセ科学を批判する者は科学を絶対視している」というおなじみの批判がまたぞろ目に入った。論理と科学を同一視したりするからこんなことを言われるのかしら? 論ずる必要もないとは思うが、こうなると、わら人形論法である可能性も出てくるか。
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おそらく、必要な自己批判的視点のひとつには「この批判によって流れ弾に当たる人が出てこないか」といったものがあるだろう。これについては「その流れ弾に当たる人は、同様に紛らわしい言説を無責任に流している人なのか、それとも純粋にとばっちりを受ける被害者なのか」といった検討は、常に必要だろう(ただし、「買うななどと言っていなくても『ニセ科学だ』と言われることで売れなくなる、風評被害が生じる」という指摘に対しては、「そもそもまともな説明をできない製品やサービスを売る方が無責任だ」としか言えない。ちょうどapj氏が先ほど「不実証広告規制」というエントリで、その点について詳述している。参照されたい)。
#apjさんの「不実証広告規制」は、、この一連のエントリを書いている間にアップされた。
#これを読むと、なんかもう、ウチのエントリは周回遅れで遅きに失している感がバリバリ。
#しかし、まあ自分の頭の整理だということと、もったいない精神でアップしちゃう。
#とほほのほ。
ま、なにはさておき、それはここがおかしいよ、などというツッコミがございましたら是非是非。って、こんなに長いのを誰も全部は読まないか(-_-)
実のところ、
>「それとも純粋にとばっちりを受ける被害者なのか」といった検討は、常に必要だろう
に関して、私は「真に賢い事業者は流れ弾も受けない」という意識でいるわけです。私は悪徳商法批判者だった時にネットを使うタイプの悪徳商法が花盛りで、片端から「こういうのは全て内職商法」みたいな形で警告していたのですが、真の意味でまともな事業者を流れ弾に当てたことが無いわけです。理由は簡単でして、ネットの初期にはネットを使って内職する人を探していた会社もあったのですが、ネットで内職商法が花盛りになると、「紛れたくない」と単なる求人広告に切り替えてしまい積極的に動いて人を探すという活動を辞めてしまったわけです。つまりネットという小川が汚れ、イトミミズが繁殖するドブに変わりはじめると、「紛れたくない」という意識のあるまともな事業者というメダカは消えてしまうわけです。そのために、「そのドブ川にいるのは、皆、イトミミズ」とやっても、メダカを間違えるという事は起こらなくなったわけです。
変な例えですが、こういう生態系の変化の様なダイナミクスの無理解が、いたずらに「流れ弾をあててはいけない」という不必要な心配を生んでいる気もするわけです。
おっしゃるとおりです。そして、事業者が十分に賢くなかったとしたら、それはその事業者の責任でしょう。イトミミズがはびこりはじめたばかりで、場をうまく見極められなかったのだとしても「不運ではあるけれど、事業者としては甘かった」ということにならざるを得ないでしょう。
事業者については「流れ弾に当たること」が不運なだけだったり、「純粋な被害者」だったりすることは、なかなか想像しにくいとぼくも考えています。いや、念頭に置く必要はないのかもしれないとさえ思うこともあります。
「真に賢い」といえば、消費者だって流れ弾なんかに当たらないかもしれないし。
ただ、「流れ弾」でも「純粋な被害者」でもカバーされないので、別の話になってしまいますが(そうでもないかな?)、次のようなケースはグレーゾーンのように気になっています。そのせいで、「この人も単に『アウト』と切り捨てていいのかな?」という信号を自分に向けて出し続ける必要を感じ続けているのかもしれません。
ゲルマニウムの効果
http://jukoudou.cocolog-nifty.com/
このブログには、以前も「私にとってのニセ科学問題」のコメント欄でちょっと触れたことがあります。この人はゲルマニウム治療器具の販売者・施術者です。
この人は、自分の経験から、施術に用いるゲルマニウムの品質そのものが一定の条件を満たしていて、症状に応じて適切な場所に適切に貼れば、ある種の症状に関しては緩和できることが多いと主張しています。医者が成果を上げられずに立つこともできなかった人たちが、彼の「未熟な(本人談)」施術でも数十分ほどで歩けるようになったケースがいくらでもあると主張しています。また、効果は広範だと主張しつつも、万能ではないとも主張しています。
怪しげですよね。ほぼこの人「だけ」が言っている理屈や成果を、うのみにする理由はありませんし。
言ってることが本当なのだとしたら、「細々と商売している場合じゃないよ! 患者だかお客さんだかの治療?記録と自分のノウハウや知見をまとめて、大学にでも何でも持って行って、ちゃんと二重盲検法とかで調べてもらえよ!」と思います。施術は商売じゃないから商品の料金しか受け取らないと言っても、医事法とかとのからみはどうなってんだよ、とも思います。
また、効果を上げたといっているケースは主に疼痛緩和なので、プラセボがまっさきに疑えます。だとしたら、そんなことをして患部や原因を放置していると、予後がとんでもないことになる可能性もあります(もっとも、お年寄りが多いので、予後よりも今得られる効果が大事なのかもしれませんが)。
この人は「科学が必要とする手続き」に関して無知なのかもしれません。あるいは実感としてはどうであれ未検証のものを第三者に販売・施術するということの責任について、無自覚なのかもしれません。そういう中途半端なものを扱っているのですから、販売者・施術者であっても検証に資する努力を払うべきでしょうけれども、それを怠っているとも言えるかもしれません。
そうではあるけれども「精一杯に善良で誠実であろうとしている、人のいいおじいさん」ではあるようで、しかもこう言っては失礼ですが、まさに自分の体をゲルマニウム治療器具で軽快させて(と本人は主張している)、それでなんとか生活できている零細事業者です(しかも、先頃、ついに健康上の理由から店を閉じたようです)。
こんなケースを見てしまうと、あっさりと「無知は言い訳になりません。残念でした」などと切り捨てることには、どうもためらいがあります。
また、こっちはすでに事業者でさえないのですが、うっかり広める側に回ってしまった市井の人たち、消費者たちのことも考えてしまいます。それも、身内の病気や解決できない悩みなどの弱さから怪しげなものにすがった結果、たまたまなにほどかの効果を得たと思って、それを話題にすることで、それと自覚せずに片棒を担ぐことになってしまったような人たち。
これも「流れ弾」でも「純粋な被害者」でもないかもしれないですね。「当たるべき責任のあるところに当たっているだけ」のような気もします。
とりとめもない話ですいません。
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=7517#com7530
事業者としては、ということになると、当然ながらこういう話になるわけであります。気のいいおじいちゃんだからと免責されたりはしない。そこには何の異論もないのです。
だから上記のぼくのコメントは、感傷ってば感傷なんだよなあ。
──でも、今の私のスタンスは、poohさんのブログに書いたコメント(↓)
http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-07-10
の通りです。以下、文脈を無視して一部抜粋。
−−−−−−−−−−−−−−−
私の関心は、「こういう(避けうる)悲劇が繰り返されている」という事、「そもそもこれは(避けうる)悲劇である」と捉える価値観があるという事を少しでも広く周知されるように、微力を尽くす事だけにあるんですね。
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なぜそういう心境の変化が起きたかというと、冷血漢と思われるでしょうが、それが戦略的に無意味ないしむしろ逆効果だと気づいたからです。それだけです(あと、自分も「知らなかった」「良い事だと思って善意でやった」という過ちを多々犯す人間であるのを知っているので、その事で「過剰に」断罪されるようになると困る──という事ももちろんあります)。
大学生時代に就職先を選ぶ際、ジャーナリズム系に進むか教育系に進むかで悩み、結局、中学・高校の教員を選びました。「このおじいさん」を糾弾・断罪しなければならない(そうなりがちな)仕事よりも、みんなが「このおじいさん」みたいになってしまったらどんな社会になってしまうのかを考えさせ、でも「このおじいさん」みたいになってしまう潜在的可能性はみんなが持っているという事に気づかせる(その機会と余裕が十分にある)仕事に就きたかったからです。
「“知らなかった”“良い事だと思って善意でやった”が免罪符になるような社会」を好ましいとは思わない価値観を広く訴え気づいてもらうには、直接「このおじいさん」を糾弾・断罪する方法しかないわけではないし、むしろ、直接「このおじいさん」を糾弾・断罪する事は目的に対して逆効果でしょう。
──では、どうしたら良いのかという事を、私はずっと模索しているような気がします。「ニセ科学」に関心を持つ皆さんの言動に私が興味を惹きつけられるのは、このあたりにもあるのだと思っています。
余談ですけど、なんだか、亀@渋研Xさんのコメントを読んだ後で、こんな事を書いていると、本当に自分が人間として当然の人情も感受性もない冷血漢に思えてくるなぁ……(苦笑)。
私は「このおじいさん」が「精一杯に善良で誠実であろうとしている、人のいいおじいさん」である事を疑っているわけではありません。でも、「この点に関しては」間違いなく『アウト』と言わざるを得ないというだけの事です。同様に「うっかり広める側に回ってしまった市井の人たち、消費者たち(中略)それと自覚せずに片棒を担ぐことになってしまったような人たち」も、どう考えてもやっぱり『アウト』です。
ただ、それは多くが、「いやぁ、知らなかったとは言え、本当に申し訳ない事をした。お恥ずかしい限りで、穴があったら入りたいですよ、わっはっは」「いえいえ。まぁ、おたくも人間だったって事で。実を言うと、私なんかも昔はですね……」なんて話で本来済むような『アウト』でもあるのだろうと思います。人間って、そんな『アウト』を繰り返し、互いに許し合っていくなかで、経験を積み、より良い社会を築いていったのだと思うんですよね(そのあたりの事は、ぜひ技術開発者さんから教わりたい事の一つでもあります)。
なんだか、いつの間にか、亀@渋研Xさんが上のコメントで指摘されているような疑問点を述べ合う事さえ、「人格の全否定をしようとしている」「断罪しようとしている」みたいな受け止められ方をされるようになってきてしまっている気が強くしています(亀@渋研Xさんでさえ「あっさりと「無知は言い訳になりません。残念でした」などと切り捨てること」などと書いているわけで……)。別に、マスコミがするようなバッシングをしたいと思っているわけではないでしょうに……。
そういえば、教員をしてた頃、「おいおい、人が頑張って働いてんのに居眠りなんかしてんなよ(笑)」と注意しても、10年前なら「あ、ごめんなさい、てへっ」みたいな感じで済んだのが、最近は「寝てません、先生は僕を疑うんですかっ!」みたいな展開になる事が増えてきてるような気もするなぁ。いや、単なる印象論ですし、かなり大袈裟に書いてしまってますけど(苦笑)。
そういう子は、「何か失敗する」→「怒られる」→「許してもらう」→「成長を認めてもらう」という体験が圧倒的に足りないのかなぁ……とも思ってみたり。いや、まったく根拠はないんですけどね(苦笑)。でも、このプロセスは、教員時代の自分がかなり意識していたものではあるんですが。こんな適当な事を書いてたら、ドラゴンさんに叱られるかな……。
さらに全然関係なくて申し訳ないんですけど、最近(?)「ツンデレ」が流行ってるそうじゃないですか。「別にあなたの事が好きってワケじゃないんだからねっ!」ってヤツ。たぶん、なんらかの理由で「好き」という自分の気持ちを認めたくないのでしょうけど、それを認めないでいる事でどんどんとオモシロイ出来事を引き起こしていくさまが、周りから見てウケるのでしょうか──よく分かりませんが。
実は、「ニセ科学」の人たちも一種の「ツンデレ」と言えるのかも知れないなぁ……とか(でも、「ツンデレ」は、最初は「ツンツン」でも、最後には「デレデレ」にならなくちゃいけないんだっけ?(苦笑))。
「このおじいさん」が亀@渋研Xさんと会話して、それまでまったく知らなかった、思いもしなかった事に気づかされ、それをきっかけにして「デレデレ」状態になるような事がありうるのだろうか、ちょっと(いや、かなり)興味があったりもします。
冷血漢かぁ……考えたこともなかったです。そうか、弱者にやさしくないように見える人って、そう思われるリスクがあるわけですよね。
ぼくは「目配りが十分でない人」っていうふうには思ったかもしれないけど……なんか、それでも十分に言い尽くせてない気がする。
手塚治虫で育ってるからかなあ……どっかで、根っからの悪人みたいなものを、想定できなくなってる自分に、ときどき気づきます。すぐ忘れるんですけど。
ぼくは大学をやめたときに、改めて編集者という職業を選び直したんですが(それ以前にも編集者になろうと思っていた時期があったけど、ちゃんと考えていたわけじゃなかったので、「さあ、就職しないと」となって、改めて考えたので)、自分の仕事の世間への影響って、なにも考えていなかったなあ、といま気づかされました。
思い出話になっちゃって恐縮ですが、ぼくには、口がうまくない兄(曲がりなりにも大卒)がいまして。言い合いをするとだいたいぼくが勝てるような気がしてたもので、なんか大学を出られなかった自分の方が「知的な面では達者だ」みたいに思っているところがあったんです。
でも、この兄に「なんで子どもが大好きなのに教職をとらなかったの?」なんて質問をして、その答えに驚かされたことがあったんです。「子どもが好き過ぎるから」っていうんです。「きっと、自分は子どもたちにべたべたに甘くなってしまう。でも、それではよくない。だから教師は考えなかった」って。確か、だから「怖い」とも言っていました。
このときぼくはまだ大学をやめていなかったはずなんだけど、いざ自分の就職先を考えるときには、こういう「それが他者にどういう影響を及ぼすか」なんて、まったく考えなかった。情けないんですが……。
だから、田部さんもうちの兄も、すごいと思います。どっちかというと、自分のことを、冷血漢とか自己中心的とかって思います。
そういえば、オレが結婚するって決めたときに、義理の妹(オヤジの後妻さんの連れ子)に言われたなあ。「お兄ちゃんは結婚しないんだと思ってた。だって、冷たい人だもん」って。そういえば、中学の頃にも一部の女子には面と向かって言われてましたね。亀尾くん(オレです)は冷たいって。
きっとね、ぼくが気づけている「人の痛み」があるとしたら、自分の痛みにつながっている部分だけなんですよ。
おっと。なんの話をしてるんだろうなあ、おれ……(汗
ええと。
>あっさりと「無知は言い訳になりません。残念でした」などと切り捨てること
なんてボクが言い出すのは、それをボクがやりそうだからですね。ていうか、多分、気づかずにやっているだろうと思っているから、かも。だからだかなんだか、ほかの人がそんな感じのことをやっているのを見ると、「ああああああ」と思うわけです。多分。
それはそれとして、単に誤りを指摘しただけのつもりなのに、全人格を否定されたように受け止められちゃってビックリ、みたいなことはボクも何度となく経験しています。で、そういうことが最近増えているのかネットでは多いのか、なんかこう、そうことを経験しています。
あ、家内がムスメになんか話しかけると、そういう反応が返ってきて困る、ってのもあります。なんでだか、オレが突っ込んでも「否定された」とは受け止めないのに、カアチャンが指摘すると「批判された、やめろ、直せと言われた」と受け止める……みたいなことは、起きているなあ、今も。でも、これは違うか。
あああ、このコメント、もう、ぐだぐだにもほどがある書きっぷりで、きっと、ポイントをひとつもとらえていないなあ(汗
でも、まだ書いてしまいます。
あの、ゲルマニウムのおじいちゃん、なんか身の回りの誰彼とカブるんですよ。雰囲気だけで言うと、小中学校の先生がたとか、PTA役員の誰とか、地域の団体の誰とか、そんな感じで(××小学校の校長先生とかが実際に似ている、とか、そういう意味ではないですよ! あくまでも、ぼくとの距離とかその人の立場を「雰囲気で」言ってるんですからね)。こう、少なくともちょっとは責任のある人で、熱意とか善意とかで動いていて、だけど「ものごとの筋道」みたいなところでは、うまくコミュニケーションができない、そういう人。
ぼくにとってツライのは、「意見が合わない」のではなくて、基盤を共有できないみたいな感じが多々あることで。だけど、実はなんでそう思うとか言うと、「ものを考える」っていうのはどういうことか、っていう点でボクは気づかないうちに別のエントリ(「科学」なんだから共有しようよ)で書いたような「科学や民主主義」を自明の前提として持っているんだ、というあたりに原因があるような気が、いま、してきています。
ゲルマニウムのおじいちゃんとは、きっと、「確かな根拠」と言えるためにはなにが必要か、なんで今おじいちゃんが考えている根拠では足りないかとか、そういうところでまだ合意できないんだろうと思います。だけど、そこら辺まで遡った話題を出さなければ、お互いにそこに気づけない。しかも、そんなに遡ったら、そりゃひょっとすると「あんたの言ってることはおかしいよ」とかいうのよりも、よっぽど甚大な問題提起で、これまで「よかれと思って選んできたあれこれ」があるだけに、これまでの人生の否定になりかねない。それこそ人格否定にも似ている。
これはさあ、カウンセリングかなにかのように「ああ、そうなのかあ、そうだったんだねえ」って、まずは共感して、受容して、そのうえで「こういうふうに考えられないかな」って積み重ねていかないと、どうしても話題にできないことなのかもしれない……なんて、そんなことも思ったりするわけです。
あ、この辺、近頃の教育論、ていうか子育て論とかの影響も受けているかもしれません。
ひたすら「ぬるい」のかもしれません。
>「ニセ科学」の人たちも一種の「ツンデレ」
全部じゃないんですが、ふまさんとかは「科学への秋波」みたいなもんを感じるときがあります。「オレが好きな科学を、そんなふうに使わないでくれよお」みたいな。
「ニセ科学」というネーミングへの過剰反応みたいに思うこともあって。「ニセ」に反応しすぎとか、「科学」に反応しすぎとか。ニュートラルっぽい「疑似科学」だと反発しなかったりするケースを考えると、「科学への情が深いのかもなあ」なんて思ったり。
>オレが突っ込んでも「否定された」とは受け止めないのに、カアチャンが指摘すると「批判された、やめろ、直せと言われた」と受け止める
それは、カアチャンが「指摘する行動」「ツッコミを入れる行動」でもって、「直せ」という教育をしてきたからでは。指摘やツッコミを入れるだけ入れて直せという圧力を一切かけなければ、そんなことにはなりませんよ、きっと。
そうなんでしょうねえ。たとえば10回のうち7、8回は「指摘=直せ」で、残りの2、3回も「直しても問題が起きない」のであれば、もう100%「指摘=直せ」の完成ですものね。
と、そう考えるとこれは「時代の空気」とは関係ないのかな……。いや、一般化していいのかどうかはともかく、過干渉で育ててるとそういうことになりかねない、ってことの可能性もありますかね。
夫婦の間から小さな会社や特定の部署あたりまで、少人数の閉じたコミュニティ内だけで通用する、「全部言わなくても意図が分かって意思疎通できる」コミュニケーションの例でしょう。
「アレ持ってきて」で大抵意味が通じるというのと、「指摘」だけでそれに引き続く「直せ」から、指摘を無視した場合に起きるトラブルまで全部予想ができるというのとは、多分同種のコミュニケーションなんですよ。
ただ、こんなことを繰り返していると、そのうち単なる指摘が全く機能しなくなるという弊害が出るわけで、他人に何かをさせるときにコミュニケーションをさぼるなということに尽きるような気がします。