2008年01月23日

「科学」なんだから共有しようよ

このブログには、「科学的ってどういうこと?」というエントリがすでにあります。しかしまあ、このブログも連載も、「科学ってなんじゃらほい」をするようなものだということも当初に述べてるし(「目的とか」)、先のエントリだって中途半端だし、ここらで「世の中では科学とはこういうものだということになっています」ではなく、「自分の科学観」を改めて書いてみることにしました。

「科学ってなんだ」っていうのは科学哲学なんていう学問があるぐらい奥の深い話です。でも、ぼくは学問てものをちゃんとやったことのない人間で。しかし、今日あれこれ考えていて、ちょっと「ああ、おれはこんなふうに考えていたのだ」と気づいたことがあるのです。まあ、言葉を操るのが飯の種の人間ではあっても、学問の素人はこんなふうに考えているのだ、ってなサンプルとしてお読みいただければと思います。

手っ取り早くまとめちゃうと、こんな話。
自分の「科学観」を改めて考えてみたら「共有」がキーワードのような気がしてきた。文系にも高卒にも馴染みのあるものに思えてきた。だったら「みんな、科学で行こうぜ」だな、という感じ。

では、はじまりはじまり。

●科学=自然科学なのか
確かに世間では「科学=自然科学」のイメージが強いです。が、ぼく自身は必ずしもそうは考えていません。これは前から自覚がありました。
ぼくの素朴なレベルの理解だと「しっかりした根拠に基づいて、筋道の立った考察をするもん」が学問であり科学だ……というような感じです。どっかで「学問=科学」みたいに思っているところがあって、少なくとも科学というのは自然科学に限ったもんじゃない。

で、あれこれぐずぐず考えていて気づいたんですが、科学とか学問ていうのは「基本的な訓練さえできれば、その成果を共有できる『共通言語』みたいなもん」だと考えてきたようです(これ、間違ってないですよね? で、重要な特徴じゃないかなあ)。

でも、そう考えると、上記のようなことは自然科学と人文科学、社会科学とかいうときの共通項ではあるのだけど、ただし西洋由来のもの限定、っていうような制約が、ある。いわば「西洋近代科学」が科学なんだ。いま気づいてみると。

これはおやじ(大学で西洋哲学を教えていた)の影響とか、高校から大学のときに読みかじった『ソクラテスの弁明』『空想から科学へ』や東洋哲学の本なんかの印象の残滓(内容はまったく覚えていないので)なんかのせいかもしれません。

●歴史妄想劇場
ちょっと歴史の流れを、自分の印象に基づいて妄想してみます。妄想なので事実とは異なるかもしれないけど、許して。なんで「共有できるかどうか」が科学かどうかの分かれ目で、それは東洋の学問になくて西洋の学問には必要とされたと考えているのかを探り出すためなんで。

「しっかりした根拠に基づいて、筋道の立った考察をする」という点だけをとれば、多分、別に西洋の近代科学に限定されるようなことではないですよね。
きっとかなり古く、古代の誰彼、たとえばこれは西洋だけど、紀元前のソクラテスあたりだって(『弁明』あたりを読みかじった程度ですけど)気持ちとしては同じだったはずですよね。ここら辺までは東洋も西洋も、「考える」とか「考えて、世界の原理を解き明かそう」みたいなところでそんなに変わらない。
だけど「なにがしっかりした根拠なんだ」「筋道の立った考察ってどんなもんなんだ」ということは、時代とともにどんどん精緻化されていった。その精緻化の方向が、東洋ではひたすら掘り下げて行くとか体験・経験を積み重ねるとかいう方向に行ったのだけど、西洋では「ほかの人でも確認できる話になってるか」みたいな方向に進んだ。そういう違いがあるんじゃないか。で、ここが「学問=科学」になり得ず、だけど一方で「自然科学も社会科学も人文科学も科学です」になる分水嶺みたいなことになってんじゃないか。

で、そういうふうに精緻化されて行くと、西洋ではソクラテスの時代のような思考方法ってのは、見直されて汎用化される方向にバージョンアップされていった。なんてんだろ「直観や見識に基づく思弁としてはありかもしれんけど、方法論としては不確かなところ、確認できないところが大杉。もちょっと普遍ていうことや客観てことを、観念ではなくて実態に即して考え直してみんと。そうじゃないと成果を誰とも共有できんよね」みたいなことになってきた。
だから今はギリシア哲学なんかは「科学」とは別物に見えるかもしんない。そうなんだけど、流れとしてはあそこからつながってて、というぐらいの関係はある。

それで、精緻化の過程で、たとえば論理学が充実してきたり、そこら辺をはずしてものを考えることができなくなったり、自然現象(ってことは内心の問題以外のほぼ全部、森羅万象)を扱う方法論として自然科学にも結実して……という感じで「みんな同じスタート地点から来たんですよ。だから、あれもこれも根っこのところで要求される最低線は一緒なんで、それなりに似てます」みたいなことになってる、という感じ。

きっと、こういう印象をもっているせいで、「なによりもまず先に、論理とか考え方を身につけないと。そのうえで、考察が道をはずれないためには、それなりに知識が必要なレベルも世の中にはあって」みたいな思いが、ぼくには根強くあるのだろうとも思います。

あのぉ、進化論についての勘違い素人向けのツッコミに「猿が進化して人間になったんじゃなくて、猿と人間は共通の祖先から進化したんだよ」っていうような話がありますよね。最近、この話にからんで、なんか似たような図式を思い浮かべたりしてます。「自然科学から社会科学が生まれたんじゃないの?」とかいうような話もどっかで見たんですが、そういうどっちかからどっちかが出て来たんじゃなくて、「どっちも同じ先祖から来てるんじゃないの」みたいな(あの科学もこの科学も、という点でも、東洋の学問と西洋の学問という点でも)。

あー今は関係ないかな。すいません(汗

●学問=科学でもない。共有可能かどうかが鍵
まあそんなわけで、東洋哲学だとか東洋医学なんかは、ぼくは科学だと思ってないわけですよ。さっき改めて気づいたわけですけど。

いや、繰り返しっぽいけど、東洋哲学やなんかだって、ソクラテスなんかと同じような感じで根拠と論理を重視していたと思うんですよ。だけど、今となっては別の文脈でしか語られ得ない(もちろんこれは方法論が間違っているとかそういうことではないんだけど)。おそらくは前述の「共有」に関する意識が決定的に違っていて、それは「普遍とか客観とか」ってあたりで(つまりかなり早い段階で)違う道を進んできた経緯があるから……だとぼくは考えているようです。

これも印象に基づく偏見かもしれないんですが、東洋に古来からある学問では、武術なんかと似たような「個人の取得した知見はどこまで行っても『その人個人が体得したもの』」なんていう感覚がないですかね。だから、たとえば一見すると同じような「あるレベルに達さないと共有できない」というようなことを言ってても、その意味が西の世界での「知識や技術の高いレベルでの取得」とかとは意味が違うみたいなことが起きる(ソクラテスの時代とは似てるような気はするんですけどね)。
しかし、そういうものは、ぼくは科学だと考えていない。むしろ、だから「科学」との流儀の擦り合わせだって簡単にいかないのねえ……みたいに考えているようです。
まあ、そんなわけで、東洋哲学とか東洋医学とかは、学問ではあっても科学にはならないのではないか、となっちゃうわけですね。

で、まあ西洋由来と切り分けちゃったけど、そういう「科学」っていうのはかなり敷居の低いところで共有可能な方法論だと考えているわけですよ。
あ、そうは言ったって、あるレベルから上の話は、それなりに訓練も知識も必要です。でも、それは「悟りを得る」とかいうのに似たような「理解レベルの飛躍的な発達」みたいなことを、必ずしも意味しない。
よっぽど最先端の、世界中でまだ数人しか理解できていませんみたいな理論であれば、近いところがあるかもしれないけど、それもいろいろ追試されたり検証されたりするうちに共有できる知見になっていく。

たとえば相対性理論って、そうだったじゃないですか。ぼくが子どもだった60〜70年代あたりは、「ちゃんと理解できている人は少ない」とか言って「究極奥義」みたいな触れ込みだったんですよ。だけど、80年代になって大学に物理学徒として職を得た友人(ってきくこま博士ですが)に聞いたら「学部生で理解できてないと先へ進めない」なんていうレベルになってた。そういう底辺(というには上の方だけど)へ広がって行ける「共有化可能な知見」という構造を、科学っていうのは常にもっているんじゃないんだろうか。

●なんで今こういう話か
実は、これを書くにはちょっときっかけがありまして。ここ数日「どこまでも」(Interdisciplinary 2008年1月18日)のコメント欄で「科学観」が話題になっているのですよ。追加エントリで1年ほど前の「科学」(2007年2月13日)っていうエントリが紹介されるわ、っていう盛り上がり(ちなみに、このエントリの広辞苑からの抜粋、便利ですよ、勉強になりますよ)。
で、ぼくもコメントしようと思ったら、例によって長くなり、さらにあっちでは問題になっていない部分も盛り込みたくなったのでここに投下した次第なのでした。

で、その科学観で盛り上がっているコメント欄で、脇筋だったんだけど「なんで文系出身者は『ぼく文系なんでそういう科学とかの話はわかりません』とかいう言い訳をしちゃうのか」を書いちゃった。こんなの。
>文系・理系のイメージは、大学の卒論の書き方から来ているんだと思います。

それもあるのかもしれませんが、ぼくは「高校の進路指導」、とくに進路別クラス分けと、ぼくが行っていたような三流私大での文系学科のぬるさが「わし文系だから難しいことはわかりませんねん」というような自己卑下的弁明を生んでいるのではないかとにらんでいます(どっかで、同じようなことを書いている方もいましたが)。

言うまでもないような気もしますが、少なからぬ数の私立高校で「国公立志望クラス」「私立理系志望クラス」「私立文系志望クラス」といったクラス分けが行われ、しかもそれが成績順と同義だったりします。つまり、数学や物理・化学・生物等々を受験科目にできる人とできない人というのが、勉強ができる人とできない人の違いと認識されるわけです。

また、20年ほど前の三流私大の文系学科では、卒論提出の義務がなかったり、学問的訓練と言えるようなことは、ほとんど行われない例さえ少なくありませんでした。自分のいたところだけではなく、他大学の卒業生で「同じ同じ!」と言う人も、一人や二人ではなく、会ったことがあります。
原書購読もろくにせず、ゼミで岩波新書の輪読をしていたり、定期試験では記述式の設問も出ますが、事前に問題をある程度示し、ノートや教科書が持ち込み可だったりするので、講義に出ていさえすれば単位が取れると言っても過言ではなかったり(そういえば、スーダラな大学ほど一般教養でも出席点を重視する講義が少なくなかったような……)。
調べたことはありませんが、かなりの数の私大で同じような状況だったのではないかと推測しています。

こうなると、高校から大学にかけて、受験期を除けばほとんど勉強らしい勉強なんかしていないわけです。自分なりに読書などして考えるとか、自分から先生や勤勉な先輩に食い下がったりした経験もしないままに学部卒で終わってしまえば、そりゃあ「難しいことはわかりません」なわけです(実のところ、そういう知人がそれなりにいます(-_-))。

あ、あわてて補筆。
ぼく自身は学部卒どころかドロップアウトしちゃった人間なんで、自分を棚に上げた話です(汗

あと、いくら三流私大でも、学科によっては文系でもそれなりの訓練はされていました。特に、その大学の看板学科みたいなものが実証科学的な性格をもっていた場合に顕著だと考えています(というか、在籍している教員のスキルないし性格によって、なのかもしれませんが)。
たとえば某大は文学部のとくに歴史学が伝統的に看板で、史学科では文献史学を徹底的に叩き込まれ、考古学科で発掘にあちこち引き回され、別の某々大学では心理学科に名物教授がいて学生を被験者にした実験ながら統計からなにからかなりしごかれ……ただし、ほかの学科はそういう厳しさはなーんにもない、なんていう具合です。

また、ある程度の鍛えられ方をした人たちは、謙遜することがあっても「学部卒で院には進まなかったから、とても学問をしたとは言えない」なんていう調子で、「文系だから」なんていう卑下はしないことが多いという印象をもっています。

ちなみに、「理系や芸術系の鍛えられ方と比べると、しょせん文系はぬるい」などと考えている文系学部出身者は一定数いるだろうと思います。しかし自分の周辺で考えると、それはまあ個人個人の感じ方ってやつで、例外扱いしちゃっていいんじゃないかと。頑張った自覚がある人はプライドもありますんで、思っていてもなかなかそうは言わないですね。
これは、「ぼくは学問をちゃんとやったことがない」と言う代わりに「高校で私立文系クラスだったんで」とか「大学でスーダラな文系学部だったんで」という意味で「文系なんで」と言っているのだという解釈。
少なくとも、こういう高校生活、大学生活を過ごした人って、そんなに少ないわけもないだろうと考えているんですが、どうですかね。

で、どうしてこれを持ち出したかと言うと、こんなふうに考えたから。

大学まででそこそこ勉強していれば、少なくとも『根拠に基づいて考える』『成果を第三者と共有できる(言語化できる)』ということは、文系でも理系でも関係なく身に付いているはず、その面では「科学的」ってことは、理系だろうが文系だろうが関係ないはず。だけど、正直に言ってしまえば受験などの試験勉強以外はろくに勉強したことがない、っていう人は、学部を卒業していても「科学的」というか「ちゃんと考える」ということを身につけていないどころか、それがどういうことなのかを知らない(ぼくも知らなかった)、ということなんじゃないのか。

だけど、もしもそこに思い至れば、「科学って、ああ、そういうことだったのか」となるんではないのか。
そうやって来し方を思い返してみると、こういう「根拠に基づいて考えようよ」とか「筋道を立てて考えてみよう」とか「成果を共有しようよ」というのは、言葉こそ違うかもしれないけれども、幼稚園だの小学校の頃からずーっっとやってきていることだったりもする。
だったら、「ああ、おれ、その科学だったら入口まで行ったことあるわ、まるっきり知らない話ってわけでもなかったんだな」となるんじゃないのか。

●科学って民主主義とよく似ている
そんで。
ぼくは、科学も民主主義も根底では同じもんだと考えている。どこが同じなのか。論理的整合性や根拠を重視すること、成果を共有することを重視すること、共通言語を育むことで「いっしょに考える」ことができる状況を目指し、実際に一緒に考えて行くことを目指していること。

ね? かなりかぶってるでしょ?

ぼくは民主主義が最高の手法だなんて考えていない。科学が絶対だなどとも考えていない。しかし、今のところどちらももっともマシな手法なんじゃないか。単にほかに代わる手法は見当たらないんじゃないか。そう考えている。

そうだとすると、科学的なものの考え方というのは、なかなか間尺に合っていて、実際に物事を進めるときに便利で重要な指針となるはずだ。であれば、「ぼく文系だから」とか「学問をちゃんとやっていないから」ではなくて、せいぜい科学的にものを考え、科学的にものごとを進めようではないの。

全然知らないよその世界の道具の話じゃないんだよ。
空気のように当たり前すぎて忘れていたけど、意外にずっと使ってきている道具じゃないか、それってこれからも使い込んでいくしかないんもだよな、って気に、なりませんか?

もしもそうなら。
文系だろうが、ぼくのように高卒だろうが、「いっしょに科学でゴー」で、よろしいのでは? なにか、そこに問題が?

-----------------------


うう。書いてみると長いばかりで、筋道がぐしゃぐしゃだな。しかも、自分でもつながりが不明なのに大事そうだとか思ってて切れないし(汗)。ひょっとすると、内容も当たり前すぎる……かも……(大汗)。
posted by 亀@渋研X at 05:21 | Comment(11) | TrackBack(1) | そもそも | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 「科学」なんだから共有しようよ
この記事へのコメント
こんにちは。

先日は、亀さん(TAKESANさんの記事も)のブログを自分の記事でリンクして、その後、ご挨拶し忘れたので、リンクからはずした、せとです。
覚えていらっしゃいますか???
あの折は失礼いたしました。
これに懲りず、またよろしくお願いいたします。

さて、
今日のエントリー、すごく分かりやすかったというか、今の現状そのもの、正鵠を得ていました。
亀さん、TAKESANさんに刺激されて、ちょっと私も書いてみます。
その折はリンクさせてくださいね(先にお願いしておこう、、、っと)

もう少し、時間をかけます。
トラックバックいたしますね!!!

では、、、またね(*^_^*)
Posted by せとともこ at 2008年01月23日 16:09
せとともこさん
長々しいエントリにおつきいただいて、ありがとうございます。
もちろん覚えていますとも。リンク&トラックバック、お待ちしています。

でも、この、ぼくのエントリ、調べもせずに、頭の中からだけ引っ張りだしてきたものなのですよね。批判的に文章を読むことに慣れている方は、「亀さんの『脳内の捏造××学』についての話」と受け止めていただけるとは思うのですが。
そういう意味では、ものすごく冷や汗をかいています。いや、おかしいことを言っているとは思っていませんけども、あくまで「自分がちゃんとはわかっていないことを、これまでどう考えてきたのか」を書いているんだなあ、っていうことで。

そういう意味でも、ちゃんと勉強をした人、いまも勉強をしている人と対話ができる(つっこんでもらえる)ネットっていうのは、すごくありがたい場です。
手心を加えずに「素人はこういう誤解をしているのだなあ」などという文脈ででも、ご利用いただければ幸いです。

これからも宜しくお願いいたします。
Posted by 亀@渋研X at 2008年01月24日 03:12
今日は。

▽▽▽引用▽▽▽
そういう意味でも、ちゃんと勉強をした人、いまも勉強をしている人と対話ができる(つっこんでもらえる)ネットっていうのは、すごくありがたい場です。
△△引用終了△△
もうホントに、その通りですよね。コメント欄で色々教えて頂いたり、こうしてTB送って頂いたり、普通では考えられないくらい、勉強になります。そして、これが「普通」である事に、感謝しています。

私は、中途半端に科学哲学等を齧っているからか、あちらのコメント欄でも、恐ろしく歯切れの悪い書き方に終始してしまっています。
詳しい方には、甘い用語の用い方で、思考が錯綜している、と思われているでしょうし、他の方には、はっきりしないなあ、と思われているだろうなあ、と(笑)
たまに書きますが、「自分が考えている程度の事は他人も考えてきただろう」、というのを常に頭に置いているので、どうしても、慎重になってしまうのですよね。
Posted by TAKESAN at 2008年01月24日 12:48
亀さん、TAKESANさん。
こんにちは。

亀さんの文って、
心の深いところにズド〜〜〜ンってくるんですね。
なんというのか、淡々としていて、
それでいて妙に粘り強く離れない言葉。
気がついたら、ウンそうだよなぁ、、、って感動しています。

亀さんのテーマは、あまりに重いテーマで、
もう一度、自分でも書こうと、考えていたら、
出てくるのは「科学」でも「理系・文系」でもなく「言葉」でした、、、
apjさんも今、言葉の紡ぐ糸と意図に拘ったエントリーをあげていらっしゃいましたが、、、

言葉って思いで、それって、やはり人なのでしょうね。
こんな風に矮小化してはいけないのかな???
と思いつつ、、、つつ、、、
では、、、また考えま〜〜〜〜す
Posted by せとともこ at 2008年01月26日 14:55
せとともこさん
うーん、なんか過大評価されている(汗笑
もしもせとさんが「自分の科学観」に言及しにくいとすると、ぼくのような「捏造かもしれない自己分析」みたいなことをするのは、慎みがなさすぎるためか、あるいはせとさんが気が優しいからかも、なんて思ったり(^^;;

TAKESANさんが「慎重にならざるをえない」っておっしゃっていますが、このエントリって、ものすごく不確かな話をしていますものね。

おまけに、ぼくのこのエントリは、「なんでオレは『科学ってこんなもん』と考えているのだろう」っていう自己言及ていうか、自己カウンセリング(そんなもんがあるのなら)ていうか、煎じ詰めてしまえば「個人史」なわけで。このエントリを題材にするのも、あんまり益がありそうな気がしないし(^^;;

あちこちにお断りを入れているように、このエントリは科学史とか思想史とかに基づいているわけではない、個人的な印象を語っているわけですよね。自分が考えていることの理由らしいものを遡って行ってみた、という話。
しかも、小学校にたどり着く前は、せいぜい「記憶の断片」程度のものしか根拠に近そうなものがない(汗)。いや、根拠となりそうな出典とか具体的な体験にさえ、本当にたどりつけてないのです。そういうものが、最初の方で「オヤジやあの本の影響かもしれない」と断ったあたりにしか出てこないのは、別に偶然でもなにかの仄めかしでもなくて、ほんとに思いだせていないんです。20代までは、まだまだ本もたくさん読んでいたので、ほかにも思いだせていない本や対話は、もちろんありそうなんですが。

こういう文章の書き方は、ちゃんと勉強したことのある人なら、しない(ていうかできない)でしょう(^^;; ぼくでさえ、自分が「脳内子ども」に関する言説をしたことに先日気づかされていて、その落とし前もつけていないうちにこういうことを書くのはいかがなもんか、と思わないでもないくらいで(爆)

しかしまあ、こういうブログやああいう連載をやっているんだから、こういう自己言及ていうか立場表明も必要っていうか、やっといた方がいいかなあ、とも考えて書いちゃったわけですが、まあ、一晩では書けませんでした(大笑) orz
Posted by 亀@渋研X at 2008年01月27日 15:52
こんにちは、亀@渋研Xさん。

東洋哲学というと神秘的に見えるかも知れないんだけど、私のように儒教思想(その中でも陽明学なんですけどね)にかぶれていると、「西洋哲学より論理的」と感じる事も多いんですね。なんていうか、最初に乗り越える論理のハードルが西洋哲学より少しばかり高いので、その論理性に至るのが難しい面はあるんとは思うんですけどね。

だから、共有という事でいうと大昔に書かれた孔子や孟子の論理を私は共有(完全ではないですけど)できるし、様々な儒学者がそれを共有し、発展させてきた様々な過程も共有出来る気がするんですね。

変な話になってしまうかも知れないけど、誤解を恐れずに言うと、私は社会学みたいなものをきちんと発展させるためには西洋哲学を下敷きにするよりも東洋哲学を下敷きにすべきではないかと思うことがあります。それは、もともと人間というのが非常に大きな不合理性を内在していると考えるからです。早くから自然というものの合理性に目覚め、その合理性を人間というものの定義に組み込もうとして発達してきた西洋哲学では、不合理性の高い人間が築き上げる社会という物を真の意味では記述出来ていない気がする時があるわけです。もともとに人間の不合理性を見据え、その上で「人間のこの部分が機能すれば社会は合理的に成り得る」と人間の様々な面の社会応用を考え続けた東洋哲学の方が、人間社会をはるかにうまく記述出来ている様に感じたりする訳ですね。
Posted by 技術開発者 at 2008年01月29日 17:09
技術開発者さん、こんばんは。コメントありがとうございます。
読んでいて、「あっ」となんかがわかったような気がしました(そういうのが危ないとも思いますが(^^;;)。

最初のステップの敷居が高いんだけど、それを越えられれば、その先には共有できる地平が広がっている、みたいなことはあるのかもしれませんね。で、それに気づいていたから、先人たちは敷居を下げて入口に導くような「説話」をたくさん残してくれたのかな、なんて。

不合理なものを不合理なままに受け止めるのは、いわゆる西洋合理主義が自身のつまづきというか、限界みたいなものとして気づいていて、それもあって20世紀半ばから東洋研究が盛んになったんだったなあ、なんてことを思いだしました(単純化しすぎかしら)。
経済学のモデルでも「人間は常に合理的な判断をする」という前提を崩したりしはじめたのって、最近(ここ二、三十年)のこと……じゃなかったですかね。

敷居の高さというのは、まあ予備知識や馴染みみたいなこととも関係が深いでしょうから、してみると、「共有可能か」「共有を目指したか」というところを科学かどうかの境界線にするのは、どうも微妙ですね。
少なくとも、「その点で東洋と西洋とは違って」という話は成立しない。ぼくが共有できなかった、あるいは共有しづらい文化的な制約が生まれているだけ、ってことかもしれませんものね。
Posted by 亀@渋研X at 2008年01月30日 02:40
こんにちは、亀@渋研Xさん。

>経済学のモデルでも「人間は常に合理的な判断をする」という前提を崩したりしはじめたのって、最近(ここ二、三十年)のこと……じゃなかったですかね。

経営学なんかでは「テーラーイズムの過適用」なんて言われていますよね。私なんかが最近興味を持ったのは「内発的動機付け理論と成果主義」なんかですね。成果に見合った報酬を常に用意すれば人は動機付けられるなんてことで成果主義を導入すると、人という不合理な生き物は報酬という強いインパクトの動機付けには、インパクトが強すぎて麻痺を起こしてしまい、動機付けにはつながらなくなって、やがて不満だけを持つようになるなんて話です。

黒猫亭さんのところで、社会的制裁という不合理な制裁が社会の中で合理的意味を持つ理由を、「もともと人間の不合理性による将来予測が悪いことを引き起こすのだから、その不合理な将来予測に不合理性のあるリスクを導入しないとバランスが取れない」という話を書いたりしています。
Posted by 技術開発者 at 2008年01月30日 09:17
技術開発者さん、こんにちは。
ご教示感謝です。すいません、まだ咀嚼できていません(そもそも、根本的に回転が悪い&知識がなくて・汗)。でも、おおお、おもしろい、となってます。
もちょっと落ち着いたら、ええと、明日とか、また改めてコメントさせてください。

せとともこさんからトラックバックをいただいていたのですが、あちらのコメント欄でも、ちょっと楽しいお話が展開中です。
http://ts.way-nifty.com/makura/2008/01/post_13ee.html

あ、コメントが増えてる、わ、オレのコメントの前にも見覚えのないリンクが(@@) きゃああ宿題が増えちゃった。

あうあう、今夜か明日にでも読もう(汗
Posted by 亀@渋研X at 2008年01月31日 08:59
なんか、こういうプロジェクトが立ち上がったようです:

Science For All American勝手に翻訳プロジェクト、協力者募集のお願い
http://blackshadow.seesaa.net/article/87828728.html

取り急ぎ。
Posted by やぶいぬ at 2008年03月06日 12:35
やぶいぬさん、情報感謝です。
すっごいですねー。原典も知りませんでした。

で、応援エントリなど起こしました。

【種】Science For All American
http://shibuken.seesaa.net/article/88488640.html

Posted by 亀@渋研X at 2008年03月06日 15:44
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Tracked: 2008-01-28 13:30