当事者意識(Chromeplated Rat 2008-01-29)
結局のところ、ニセ科学を肯定する側も批判する側も、根底の部分では科学に基本的な信頼を置いている。そうしないと、ふつうの生活が成り立たないから。同意。
基本的な信頼というのは、当たり前だけれども盲目的な信頼とは違う。科学主義っていうことばを最近知ったけれども、それとも違うだろう。ていうか、今のところは、科学主義って「基本用語」に書いた「科学万能主義」「科学原理主義」みたいなもんだろうと当たりをつけているだけで、わかってません。すいません。
ときおり見かける「ニセ科学について信奉者側と批判者側を中立的に公平な視点でみているつもりの言説」と云うのは、典型的にこう云う種類のものという辺りを読んで、昨夜読んだ、別の人たちのコメントだとかエントリだとかを思いだす。思いだしはするけれど、消化できないでいる。
反科学の情熱(黒猫亭日乗 2008年1月19日)
「科学主義」ってのはここのコメント欄で「にゃーにゃー」いう人のコメントで知った。で「科学は権威」じゃなくて「権力だ」、しかもどうやら「フーコー的権力だ」とかいう話が出てきて、お手上げ。すいません、フーコーは名前しか知りません。
ただ、科学的に云々と指摘されるだけで、ものすごいプレッシャーを感じるであろう人がいることは、いるだろうなあ、とか、それはそれとして、誤りを指摘するとそれだけで人格否定だと思っちゃう人だっているぐらいで、とか思いが駆け巡る。
さらに思いだすのが、一昨日あたりに読んだ、大串さんが書いていたマグローブ vs 御茶大の濫訴事件関連記事の第二弾草稿「マグローブ社損害賠償等請求裁判を追う【中】」に出てくる、「なぜ『お前らの科学』はオレ(たちの可能性や誠実さ)をわかってくれないのだという慟哭が聴こえるようだ」(超訳です。原文は全然違う)とかいう話。
昨夜読んだ、Genさんという方(多分)のエントリ「疑似科学を批判する人は謙虚であれ」とか、黒影さんのエントリ「科学というモノサシ」とかも。
疑似科学を批判する人は謙虚であれ(plaisir.genxx.com 2008-01-28)
科学というモノサシ(幻影随想 2008年01月28日)
とりあえず、昨夜、このなかでは最初に読んだGenさんのエントリについて、気になっている点をメモっておく。「とか」っていうよりも、実はこの文章が一番気になっているのか、オレ。
なにしろ、わかりそうでよくわからないところが多々あるのだ。
明日までに片をつけたい仕事があったりするので、ぼくの頭がとっちらかっているのか、書き手とボクで、別のものを見ているのか。
両方かも(^^;;
それはともかく、「疑似科学を批判する人は謙虚であれ」について、気づいたことなどをメモ。
逆順で申し訳ないけれど、末尾から。
大多数の一般市民にとって、科学はとても難しい。なにが正しいのか、あれこれ詳細を吟味している能力も時間的余裕もない(毎日仕事がある)。たとえば、ダーウィンの進化論を本気で理解しようとしたら、とても骨が折れる。だから、「フツウの人」は、いずれにしろ「信じる」しかないのだ。専門家が正しいと言う科学(たとえば進化論)を信じるか、身近な人格者が正しいという疑似科学(たとえば創造説)を信じるか。彼はいずれにせよ「信じる」しかない。ここには、全面的に賛同。
ぼくも、その「信じるしかない人」の一人だ。
それだけに、紛らわしい話には困り果てる。ひとつ間違えると、紛らわしい怪しい話に基づいて記事を書いてしまわないとも限らないのだから。
で、前の方に戻って……「トンデモ」と揶揄することについての話。
「トンデモさん」というとき、疑似科学批判者は、批判対象の全人格を否定してしまっている。と言う。
「と学会」は基本的に、トンデモな方々を愛でている。批判者ではない。
どこかで、彼らはバードウォッチャーだという比喩を見た。××さんが「と学会」に入ろうとするのは、それは鳥がバードウォッチの会に入ろうとするようなものだ、というような文脈で使われていたのだったと思う。
これが失礼な話でないはずはない。だから好事家の間のひそやかな楽しみなんじゃないのかな。だいぶ知名度が上がったとは思うけど。
つまり、「科学のモノサシ」に則ってあくまで事実認識をたしなめるだけではなく、彼の生き様そのものを批判してしまっている。そこには、「知的で優秀な俺様が無知なおまえを啓蒙してやるぜ」という態度が見え透いている。ここはよくわからない。そうなんだろうか?
疑似科学批判者に感じる気持ち悪さの最大のポイントは、ここにある。科学は「どう生きるべきか?」「どのような人間が優秀か?」「どのような人生がより価値が高いのか?」を絶対に明らかにしない。
こうなると「と学会」の人たちのことを言っているわけではないのかもしれないし、あるいは「と学会」的にではなく、ニセ科学などを批判する際に、「それはトンデモでしょう」という表現を使うことを言っているのか。
そういうケースがあるのはわかる。ぼくもしているかもしれない。
ボクの場合、「それはオカルトでしょう」とほぼ同義かなあ。つまり「一笑に付してしまえるほどに整合性もなにもなく、メチャメチャな主張」というような意味合い。
自然科学の人は、そんな話はしないかもしれない。つまり「科学は〜しない」には異論がない。
だけど、ぼくは科学の人ではないので、それはニセ科学(疑似科学)ではないかという話は常に、「怪しげな話をして人を惑わしてはいかんのではないのか」とか「怪しげな話を鵜呑みにしたらあかんやろ」という、むしろ「賢くない生き方」や「法的にも道徳的にもどうなの」という話とつながってしまう。だって迷惑なんですよ。
自分も落ちるかもしれないダークサイドの話だとは思うのだけれど、「なんだか違うものの話がごっちゃになってないか」とか「それでも汲めるところがありそう」とか、いろいろもどかしく。
「落とし前」とか「PISAの科学的リテラシー(あ、図書館に行かなきゃ)」とか、宿題がどんどん溜まる〜(汗
丁度、さっきエントリーを書き終えた所なのですが、私も、同じような対象について(一致している訳では無いですけれど)の感想を書きました。かなりシンプルな感想、なので、中身はほとんど無いですが…。
思ったのは、「色々具体的にイメージ出来た上で書かれているのかなあ」、だったりします。それにしては、言葉の使い方などが曖昧な気がしたりで、どうにも違和感が拭えないのでした。
新エントリ拝見しました。
どうにももどかしいですよねえ……。でも、なにかありそうで、なんだか素通りできない……。
また考えてみたいと思います。
いま時間がないので、簡単なお答になってしまいますが。
>ぼくは科学の人ではないので、それはニセ科学(疑似科学)ではないかという話は常に、「怪しげな話をして人を惑わしてはいかんのではないのか」とか「怪しげな話を鵜呑みにしたらあかんやろ」という、むしろ「賢くない生き方」や「法的にも道徳的にもどうなの」という話とつながってしまう。だって迷惑なんですよ。
ここら辺の感覚は痛いほど共感できるのですが、この手の批判は、(幻影随想さんの言う)「科学というモノサシ」の範囲外にあります。それは政治的価値観に関わる問題です。
幻影随想さんの記事の趣旨は、疑似科学批判は、科学のモノサシ(実証=観察と実験から導かれたデータ)に則って「科学」の領域で行われているけれど、疑似科学批判を批判する人たちは、「自分のモノサシ」を手に「疑似科学批判批判」を行っている。だから噛み合わない。というものでした。
自分の書いた記事は、ならば疑似科学批判者も「科学というモノサシ」を厳守しましょうよ、という提案だったのです。「賢くない生き方」「法的・道徳的にどうなの」という価値判断は、「科学というモノサシ」の範囲外に位置しています。
だから、あくまで幻影さんのエントリのコンテクスト内での提案でした。純科学的な批判と政治的な批判を分離すれば風通しが良くなるのではないか、と。
あうう、ぼくにとってはニセ科学的なものというのは「おかしな根拠でものを考える」とか「ねじ曲がった論理で話を組み立てる」とかいうことと、ものすごく近いところにあるのです。こういうのもある種の「素朴な科学主義」なのかなあ、切り離すって言っても密接すぎるように思えて……。
だけど、うーむ、そうするとぼくは黒影さんのエントリも誤読しているのかもしれない。
すいません、もう少し考えてみますが、今は外出しなければならないのでこの辺で(今日は地元の小中学校が研究発表で、私はカメラマンをやったあと、シンポジウムでしゃべるのだ、うひー)。
>切り離すって言っても密接すぎるように思えて……。
科学は近代の産物であり、かつてはアリストテレス的な哲学の営みが科学の役割をも担っていました。古代の哲学では、知識と知恵の同一性が保証されていた。<ものごとが、それが現に在るような仕方で在るのはいかにしてか>に関する知識を探求すれば、人生の意味を与えてくれる知恵に至るとされていた。つまり、宇宙がそれ自体として人間の生きる目的を表現していえると考えられていた。ところが、デカルトを中心とした17 世紀の科学革命は、自然を脱呪術化してしまった。「宇宙は人間の目的などあらわしてはおらず、たんに物理法則に支配されているだけだ」と。ここに近代科学が誕生したわけです。
つまり、近代科学は、「正しい知識を探求すれば正しい生き方に至る」という前提を放棄することによって成り立っているのです。
そうすると、この辺の問題なのか、という気がし始めています。
2つの「正しさ」とニセ科学
http://shibuken.seesaa.net/article/49796642.html
あるいは、しばらく前の「科学に道徳の根拠を求めること」とか。
端的には、自然科学の人がいうニセ科学批判と、市井のふつうの人のニセ科学批判が、おっしゃるような意味で同じ性格を持っているとは思えないのです。
また、ぼく自身もうまく問題を切り分けられていないのです。「疑似科学批判」とかといった一般化をしちゃうとよくわからなくなるのだとすれば、具体例を検討しないとなんとも言えないのか……。いずれにしろ、まだ釈然としないので引き続き考えてみます。
早々に反応いただいているのに申し訳ないのですが、本日は某社締め切りで、明日以降になるかと思います。
黒影さんの別館に関連記事。
http://kurokage.seesaa.net/article/81536817.html
疑似科学批判者は「何を批判しているか」自覚せよ
http://plaisir.genxx.com/?p=183
いよいよ、どんな人のどんな言説について言っているのかわからなくなってきた。
あ、でも、わかったこともある……かな。
まだ考え中、
で、そういうことは言わないけど、実践しているのが菊池さんだと考えています。水伝論争のときの菊池さんの対応が、黒影さんやGenさんが理想としている態度だったんじゃないかと思います。
私は、「批判者はこうすべき」という話にしちゃうと、一般化しすぎだと思っています。
私だったら、私達が何かを批判するとき「何を目的にしているの?」そして、「そのやり方で目的が達成できるの?」と表現すると思います。
例えば、もし批判の目的が「ビリーバーまたはビリーバー予備軍に対する訴えかけ」だったとします。それならば、ビリーバーやビリーバー予備軍に届くような言葉で、批判をしなければなりません。
黒影さんやGenさんの意見は、はっきり言えば「不当に」批判者に過剰な負担をかける内容です。しかも、その負担が報われる可能性もあまりないと思います。
しかし、もし目的が「ビリーバーまたはビリーバー予備軍に対する訴えかけ」であり、訴えかけの方法としてそこまでやらなければ届かないというのならば、公平さなど無視してやるしかないわけですね。
私は黒影さんのエントリも、Genさんのエントリも誰かを想定してというより、上のような一般論だと思って読みました。
#私ってnewKamer名義で活動しているときって、「ニセ科学批判」批判者だなぁと改めて思ったり(笑)
そうですねぇ。
一般論なんだろうなあと思ったり、「あの辺のことを指しているのではないか」という話を読んで「え、そうなの?」と思って、流れ弾に自分から当たりに行っちゃったかなと思ったり、いまは見極めがついていません。
多分、Genさんや黒影さんにとっては自明な「典型的なやりとり」ってのがあるんでしょうね。黒影さんの別館後続記事で挙げておいでの自ブログでのやりとりとか。
で、それを疑似科学批判に一般に含まれる問題点として受け止めていいのか、それはそういう部分での個別論なのか。
完全に評論家的なよそごと目線なわけではなさそうに思います。
また、newKamerさんのおっしゃる「過剰な負荷」というお話で、直接は関係のない「責任の非対称性」なんて話も思いだしています。
TAKESANさんが新しいエントリでGenさんへの質問を起こしておいでなので、そちらのなりゆきも見つつ、ぼくはぼくなりに考えてみたい、というところです。
ぼくも「まったく共感できない」というところまで遠い話だとは認識していません。
うちのコメント欄のどっかで書いた「ゲルマニウムのおじいさん」のこととか、「酒屋の若旦那」とか、つながっているとは思います。
一方で、科学的に整合性があるかどうかの判定と、批判するか否かの判断は、おそらく別々に行われている(個人の中でも、社会においても。自覚的であれ無自覚であれ)のだけれども、人により場合によっては動機として一体不可分になっていることがあって、そうなるといよいよ傍目には区別がつきにくいことがある……というようなところまで広げてしまえば一般論でもあり、自分の問題でもある。
しかし、いやいや、そういう話じゃなくて、なんていうことだとちょっとアホくさいかと思ったり、まあ自分なりの問題意識で取り組むしかないし、と思ったり。
ま、いずれにしろ、まだ、いろいろと定まらない私なのであります(^^;;
newKamerさん
>水伝論争のときの菊池さんの対応が、黒影さんやGenさんが理想としている態度だったんじゃないかと思います。
これについては、本当にそう思います。
> しかし、もし目的が「ビリーバーまたはビリーバー予備軍に対する訴えかけ」であり、訴えかけの方法としてそこまでやらなければ届かないというのならば、公平さなど無視してやるしかないわけですね。
このあたりの内容を、具体的・個別的に言及するべきでした。
亀@渋研Xさん
>多分、Genさんや黒影さんにとっては自明な「典型的なやりとり」ってのがあるんでしょうね。
自分は心理学に関わっていたので、「血液型性格論を信じる者たちを見下し嘲笑する風潮」を研究室でしみじみと感じてきたのでした。その経験が背景にあります。しかし、ネット上で発言するならば、ネット上の具体的事例を踏まえるべきでした。
「血液型性格論を信じる者たちを見下し嘲笑する風潮」というお話の辺りは、まったく予想もしていなかった展開ではありますが、だいたいは話が飲み込めたように思います。
まだ咀嚼できていませんが、少なくとも「もやもや」も、目を白黒するようなレベルから、落ち着いて自分の周りのことを考えることができるレベルまでにはなった、というような感じです。
でもまあ、やっぱり「よそごと」ではないんで、まだ考え続けないと、とは思っています。仮にGenさんがターゲットとして思い描かれていた当の本人やそれに近い者などがボク自身ではなかったにしても、改めてお話を伺うと、むしろ問題意識の一部では同じような認識を持っているようでもあります。で、それにも関わらず、ボクは「そうだよなあ」とはならなかった。
これは、なんかが問題として隠れているはずです。どうも対象を明確にして書かなかったから「だけ」じゃない……というような気持ちがあります。
この話題を封印することもないんじゃないかと思いますよ。
濃いエントリをバンバン書ける人がうらやましくてしょうがないです。