ぼくはテレビをほとんど見ない。勉強もあんまりしていない。最新の知見とかいうのには、ひどくうとい。
で、そういうボクなので、クオリアという単語は知っていたけれども、それがどういうことなのか、ほとんど理解していない。中学生の頃に読みかじった「イデア」とか、同じ頃に読みかじった不可知論とかとどういう違いがあるのか、全然わかってない。
単に「怪しげ」という印象があるのみだ。
だもんだから、昨日あたりもコメント欄でクライオ処理に引っ掛けて「クオリア処理」なんて茶化しはする。でも、よくわかっているわけではない。
が、どうももうちょっとダメな話だったのかもしれないということを、さっき知った。下記のエントリを読んだのだ。
日本の俗流クオリア論を撃破する(蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- 2007-11-14)
クオリアといえば茂木健一郎氏で、茂木氏といえばクオリアではある。
もうちょっと言うと、ぼくの茂木氏の印象は「テレビで脳とか認識とかについて粗雑な話をすることがある人」「ソニーの研究所の人」「脳力開発とかいう怪しげな本をたくさん監修している人」「怪しげな人とも平気で対談する人」「そういえば水牛楽団の人と噛み合わない対談をした人」という程度。
ソニーの研究所というのは、ケータイの辞書の開発なんかでちょっとすげえと思ったこともあったけど、ぼくはおおむね「ESP研究以来どうも怪しげという伝統がある」と思っている。井深大氏や天外伺朗氏のようなわかりやすい「指向」の人の例もあるし。
水牛楽団の高橋悠治氏との対談は、高橋氏にいいようにいじられたとしか思えなかった。
つまり、総じて「あんまり信用できそうにない」「なんでしょっちゅうテレビに引っ張りだされるのかわからない」、乱暴にいえば「クオリア芸者」だけど「よく知らないので言及できない」というレベルの印象。
最初にこのエントリを読んだときは、やっとこさっとこ最後の「追記」までたどりついた瞬間に「ほえ?」となった。
追記それ、最初に言ってくれ(^^;;
以上のクオリアの本来の定義から、クオリアを脳科学を含む科学一般で扱えないのは自明である。(略)クオリアは初めから哲学的問題であって、どうやっても科学で扱えないのは定義上から自明(クオリアを科学で扱おうするのは挑戦的だとか、そういうレベルの問題ではない)。
しかし、このエントリが正しいのだとすると「クオリア」が怪しいのではなくて、「茂木流のクオリア話」が怪しいのだ。これは「森『ゲーム脳』説や、川島DS的『学習療法』説のせいで、脳科学が誤解にまみれて地に落ちていく」という話と、同じことなのかもしれない。
ぼくにはハードルが高すぎて、エントリの内容の評価はできない。そもそも「俗流クオリア論」をろくに知らないのだ。書かれていることを理解できたとはまったく思えない。
そういうレベルなので、「茂木健一郎のクオリア論はダメだという確信をもった」のではない。「その道の人間から見るとダメダメな話だぜ」ということしかわからないので、前述のように「どうももうちょっとダメな話だったのかもしれない」なのだ。
今回、エントリの内容を理解しようとしてググってみて驚いた、クオリアもイデアも、会社名やサービス名などで、とーってもたくさん使われているのだ。なにか、人の関心を引きつけるキーワードなのかもしれない。
というわけで、この辺に関心のあるあなた、上記エントリを読んでみてくだされ。で、ぼくにもわかる「俗流批判」なエントリでも書いてくれたりすると、とてもうれしい(^^;;
余談:
白状すると、ボクはこのエントリに書かれていることのほとんどは理解できんかった(白状しなくても「理解できたとはまったく思えない」ってすでに書いてるじゃん)。最初は文脈を追うことさえできんかった。
そうなのだ。「知らない言葉がこれでもかこれでもかと出て来て文脈さえ追えない」という体験を、久しぶりにしましたぜ。これでも少々なら「脳内で伏せ字にして話の筋道だけ追って行って後で調べる」ってなこともできるつもりだったのだけど、今回はそんな生易しいもんじゃなかった。「心の哲学」なんて、最初は一般語かと思って読んでたもん。知らないにもほどがある。
で、そんななのに、どうしてまた歯を食いしばって(大げさ)このエントリを読もうとしたのかというと、誰かのブックマークかなにかを経由して、こういうエントリを先に読んだのだ。
俗流クオリア論批判を宣伝してくれる人募集(蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- 2007-12-04)
みんなして疑似科学批判には懸命なくせに、こういう大物の批判はろくにしてくれない*1(せいぜい批判が自己目的化した内輪受け)。
*1:無知な大衆を騙している点ではマイナスイオンとクオリアとで私にはさっぱり区別がつかない。えー、そうか、そうなのか、と思いつつ、前述のような「茂木という人は怪しげ」という印象はもっていたので、思いっきり予断に満ちた目で興味津々で読み始めたわけだ。
で。
ぼくには歯が立たない問題だということと、それでも「やっぱりかなり怪しげ」ということだけはわかりました(^^;;
しかし、きっと仕事ででも強要されなければ死ぬまで「俗流クオリア論」の本を手に取ることがないであろう私は、このままではいつまでも理解不能だろうということも確信しました(爆)
疑似科学やニセ科学を批判している人が俗流クオリア論を批判していないのだとして、その理由はなんなんでしょうね。
[2/26 16:20加筆:たとえばぼくの知っている範囲でも、poohさんの「Chromeplated Rat」では以前から茂木氏の著作に関する言及は何度かされている。ちょっとググると「近ごろ茂木健一郎氏に対するクオリア批判のようなテキストを色んな所でときどき見かけます」(「反クオリア〜」不如意的BLOGing 2007.11.06)なんて書いている人もいるので、誰もろくに批判してないというわけでもないのだろうと思う。が、マイナスイオンに比べて話題にしている人が少ないってのもまあ、そうだろうな、とは思うというぐらい]
みんながみんな、ぼくのように「俗流も本流も、どっちも知らない」「認知科学とかを、そもそも知らない」わけでもないんだろう。「俗流クオリア論」に関心をもたなかったから内容までは知らない、なんていう人もいそうだ。また、誤りを理解できていても「どっちでも実害がないからいい」と考えている人もいそう(本当に実害がないのかどうか、それさえぼくにはわからない)。
メディアでちらっと見かける茂木氏はいかにも粗雑でダメな印象を与えるとは思う。思うのだけど、「え、こいつかなり危ないんじゃない?」「こいつの著書をチェックしてみなきゃ」とまでは思わせない……のかもしれない。ダメさ加減が門外漢にはわかりにくいってことなのかもしれない。
なにしろ、ボクにはわかってない部分が多すぎて、よくわからないのでありました(汗
以下、ボクが知らなかったりわかってる自信のない言葉などあれこれ。もしも誰か「よし、書いてやる」という人が現れたら、ふつうの人はなにがわからないかの参考にしてくだされ(俗流クオリア論を読んだことのある人なら、ここまでひどくわからないってことは、ないのかもしれない。ぼくも、かじったことがある言葉や、ググって、なんとなくわかったような気になった部分もある。だけど、これを読んだおかげで「ああ、オレが知ってるつもりだった『イデア』とか『不可知論』とかも、思いっきり俗流なのかも」なんて気もしているのだ。できれば、ちゃんとした説明つきで読んでみたい(^^;;)。
それなりに理解しないとどうにもならなさそうなもの:
・機能主義
・ゲシュタルト現象
(どっちもググればだいたいわかる気もする。ってことは、ちょこっと説明を加えれば足りそう)
・結びつき問題(俗流らしき説明に頻出する『赤い色の赤いという感じ』ってやつかな?)
事例がほしいもの:
・機能主義では理解不能な究極の主観性の事例
・主観的体験全般を指す俗流の説明の事例
・主観的な個人差全般を指すような俗流の説明の事例(文中の“各個人にはその人特有の内的に生き生きとした感覚が生じていること”って説明でわかるような気がするけど、いまいち自信がない)
・感覚質としてのクオリアの存在は自明だとする俗流の説明の事例
・クオリアを擁護しないと個人の尊厳が失われるとする俗流擁護論
・神経ネットワークの同期をクオリアに関連付ける俗流擁護論の事例
文中の説明でだいたいわかる気がするもの:
・独我論
・汎心論
全然わかってないけど、わからなくても俗流のおかしさを理解することはできそうな気がするもの:
・心の哲学
・認知科学
・仮現運動
・いきいきさん批判
・デリダ風脱構築的批判
・初期ロマン派的批判
・物象化の罠
それにしても、キーワードになりそうな言葉を、ほぼどれもこれもみんな知らないってことだ。上記エントリを書いているdeepbluedragonさんには気の毒な話で……(汗)。
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茂木氏のクオリア論がどういうものなのかは知らないが、本人をたまにメディアで見かけると『怪しい人』だという印象はもっていた。
下記を読むと、どうもその道の人から見ると、彼のクオリア論はかなりダメらしい。にも関わらず、表立って批判する人がほとんどいないらしい。
俗流クオリア論批判を宣伝してくれる人募集(蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- 2007-12-04)
http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20071204/p1
日本の俗流クオリア論を撃破する(蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- 2007-11-14)
http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20071114/p1
しかも、世間に広がっているクオリアに関する知識は茂木式のクオリアばっかりらしい。(らしいばっかりだが仕方がない、なにしろぼくはよく知らないのだ)
ググるとクオリアという言葉は社名やサービス名などに広く使われている。しかし、ぼくには批判の当否さえよくわからない。ちゃんとわかる人、もっとわかりやすい批判をたくさん書いてください。よろしくお願いします。
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これなら3分で書けた(T^T)
うちがdeepbluedragonさんの云うところの「めぼしいサイト」じゃないのはまぁ申し訳ないですが、それにしても「せいぜい批判が自己目的化した内輪受け」とは喧嘩腰に過ぎる気がするなぁ。内輪ってなんだよ。
>けっこう自分のところで茂木健一郎に触れてますよ
一、二度拝見した記憶があります。ちょうどメンテナンス中で、いま「これを読んだ」とは言えないけど(^^;;
>「せいぜい批判が自己目的化した内輪受け」とは喧嘩腰に過ぎる
まあねえ(^^;;
「そんなふうに言わなくても」とは思います。
ただ、本文中にも書いたような、ぼくの「クオリア処理によるアヘ体験」なんてのは、まさにそれだなあ、なんて思ったりも(いや、ぼくの冗談よりも、あっちのエントリの方が早いので、うちのことだと思ったわけではありませんが)。
「その道」の人からすると、「なんでこんなに批判が少ないんだ」という苛立ちがあるんだろうなあ、ということは理解できます。が、誰でもなんでも批判できるわけじゃないってのは、まあ「優先順位問題」だけじゃなくて知識・能力の問題もあるなあなんてことも、改めて思いました。
先方さんのエントリは、「誰のなにが悪いのだ」ってことも含めて、読んでもぼくにはわからないところがてんこもりだってことも含めて、デジャビュな感じも。
なにしろ、もっと「わかる批判」があると、ぼくも勉強になってうれしいんですが、「水伝FAQ」なんてものに手をつけた感触や、そこで「振動(というかなんというか)の影響」の話を教わった経験からしても、いろいろ難しいですねえ。
ぼくの書きっぷりだと、poohさんのような例があることを知らないようにしか見えないですね。ううむ、念頭になかったわけではないのですが、杜撰な書き方でありました。ちょっとその点加筆します。
いや、亀@渋研Xさんの書かれ様とか、そう云うお話じゃないんですよ。
そこにどんな専門知の裏づけがあっても、例えば亀@渋研Xさんが読んでさえよく分からないような言説をものしておいて、そんでもって「大物の批判はろくにしてくれない」だのって、日頃ぼくらがじたばたしてるフィールドに較べてどれだけお気楽なんだよ、って話ですよね。
そんな場所からものを云われるのが気に喰わないだけです。って、よそんちのコメント欄でごめんなさい。
deepbluedragon さんが言うところの「もともとの哲学的クオリア理解」とは違うことを茂木氏はもとより論じているのではないでしょうか。(実は茂木氏のクオリア論を読んだことがないので当て推量ですが)なんたって茂木氏は脳科学者なのですから。確かに、クオリアは哲学的な難問であったはずですが現在では、機能主義的、科学的立場から多くの科学者が取り組んでいるはずです。
クオリアを哲学的問題だと捉えれば、科学で扱えないのは当然でしょう。哲学の役割とは、哲学的問題とは勘違いや言葉の問題に過ぎないことを明らかにするところにあるような気がします。「クオリアとは何か」ではなくて「クオリアについてあなたが感じている疑問」を解明するのが哲学かと。
そういう意味で、deepbluedragon さんのいうことはその通りかもしれませんが、茂木氏批判としてはちょっと的外れに感じます。もっとも、茂木氏のクオリア論が科学としても、相当変なのかまともなのかは分かりませんけど。
科学の立場からクオリアについて述べたものに、ラマチャンドランの脳の中の幽霊の最終章がありますが、まさに機能を考えていて非常に面白いと思いました。
いや、それはわかるんですが、まあ「専門家の書くものって、往々にしてこうだなあ」などということも思ったり(だからこそ、まったく専門の訓練を受けていないぼくが「通訳的な機能」を期待されて、考古学やデザイン、コンピュータなんかの話題で原稿を書く機会もあったりするわけで)。
知っていることをわかる人にわかるように書くだけってのは、噛み砕く労力を伴わない分は楽なんでしょうけど、それこそ「各人ができることをやるだけ」なんで、「もっと噛み砕いてほしい」と望むのもまあ、こちらの勝手な事情と言えなくもなし(^^;;
「誰に向けて書いているのか」を常に意識したいというのも、そういう意味では「こちらの事情」なわけで(ものわかりがよすぎるかしら?)。
zororiさん、こんにちは。
>「もともとの哲学的クオリア理解」とは違うことを茂木氏はもとより論じているのではないでしょうか
その可能性は高いのだと思います。
ひょっとするとdeepbluedragonさんもそこは気づいておいでで、だからこそ「マイナスイオン」が引き合いに出されているのかもしれません。その場合、「なんだかよくわからない違うものを、同じ言葉で説明するな」という話が裏に隠れているわけですね。
しかし、たとえば「哲学(認知科学?)でいうところのクオリア」の意味を、それと意識して独自に拡張したうえで、その用語を使って脳の機能についてなにかを説明しようとしているのだとすると、他のジャンルの概念を援用しようとするときにそういうことが起きるのは、珍しくないのかもしれませんが、やっぱり「まぎらわしいことをするなあ」とボクも思ってしまいます。
どうも茂木氏については、学問の世界では異端視されているのかな。そう読めるようなことも、あちこちでちらちらと書かれています。
もっとも、ぼくも「茂木氏はどこまで本気なのか」も含めて、なんだかわからないままで書いているのですが。茂木氏のWebサイト「クオリア・マニフェスト」さえ読む気になれなくて(^^;;
ぼくは批判を目的に本を読むことはしないので(人生の時間にもお金にもとても不自由しています)最初は茂木氏の言説に相応の期待をして接したんですよ。でもだめだった。
私の書いた記事を取り上げてくださいまして、ありがとうございます
クオリアが何かなんて分からなくても人生に全く何の支障もありません。常識的な判断をすれば茂木って何言ってるか分からないよねで済むのですが、困ったことに中には真面目に信じている人もいるのです。あの記事は茂木健一郎のクオリア本を読んだことがある人なら理解しやすいと思うのですが、そんな言葉どこかで聞いたこともあるなぁ程度だと読むのがきついようです。ゲシュタルト現象や結びつき問題などの事例については茂木健一郎本人のサイトでも読んだことがあります。
一つだけ例を挙げると、二人が同じトマトを見ながら「俺の今見ているこの赤い色はお前も今見ているはずのその赤い色とは違う色なんだ」って言われてそうだと分かりようがありますか?もちろん、俺の見ている赤い色はあれだと指で指すことはできません(俺の見え方とお前の見え方が違うことが前提なんだもん)。この辺りなら茂木氏の本にも書かれているはずです。
まぁマイナスイオンとか水伝に比べると実害が少ない(*1)ので放っておいても大丈夫な気もしますが、(あんなに露出度が高い割に)「きちんとした」批判がないのを不思議に思ってました。最近の茂木健一郎はすっかり文化人気取りなので、もうどうでもいいったらどうでもいい話なのですが。
(*1)本代とかくらい?でも、茂木の影響で脳科学を志したって人も(ネットで調べて)知っている。正統な脳科学ではクオリアなんて調べられないと知ったらどう思うのだろうか。
poohさん、こんにちは
けんか腰ですいません。該当の記事がそれほど読まれなかったのでちょっといらついていたところもありますし、宣伝してくれって言う挑発文句にもなっていたのかもしれません。
それから、この記事はどちらかと言うと様々な分野の研究者(院生)のような人からの評価の方が高いようです。要するにそういう記事なんです。そういうタイプの批判さえなかったことを前提にしてくださると助かります。もっと分かりやすい批判は他の方々がどしどしやってください。
あと、私だって始めは期待して茂木氏を読んだけどダメだったんです。別に初めから批判の目的で読んだわけじゃありません。
zororiさん、こんにちは
記事のコメント欄でもそうした疑問は来たのですが、初期のころは正しい理解だったのが段々とおかしくなったとその人は言っていました。。それから、科学者もクオリアについて述べることはありますが、(それはあくまで推論であって)直接調べられるかのように言うことはあまりありません。
さっき、その『音楽を「考える」』でググってみたんですが、かなりひどい評価をしている方もおいでですね。amazonではおおむね好意的ですが。
茂木氏のブログ(http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/05/post_436e.html)にトラックバックしている方のブログ「音楽、ときどき哲学」のいくつかの記事が「かなりひどい評価」の好例なんですが、そこで引かれている言説は、いわゆる「過度な一般化による文化論(あるいは社会論・芸術論などなど)」の類いです。メディアで彼をちらっと見かけるときに感じる粗雑さ、うさんくささと、およそ合致します。
ただ、こういう部分はひょっとすると「文化人」として求められている役割を果たしているだけなのかもなあ、などと思いつつさらにググっていたら、下記のインタビューを見つけました。
知のゆくえ 第一回
http://www.timebooktown.jp/Service/clubs/00000000/f04/f04_01_01.asp
「第一週 クオリアの現在的意味」から始まって4週間にわたって、「クオリアってなんだ、どんなふうに社会生活と関係するんだ」みたいなことを、平易に語った「はず」のもののようです。
こういうものなら「クオリア論」の当否はともかくとして、「文化人としてではない茂木氏」が垣間見えるのではないかと思ったのですが、違いました(苦笑)。
これ、「個人的体験って大事だよね」「あなたっていう存在や、あなたの感じたことを、誰も否定できないよね」みたいな話をしてるだけなんじゃないかなあ。いや、「それが実は利潤を生んだりしてる大元だったりするから、産業にも応用できるんじゃないかと思うんだよね」みたいな話まで広がるんですが。
ここで出てくる「クオリア」は、たとえば「本質」とか「倫理」とか「真理」とか、そういう言葉で置き換えてもほとんど困らない。多くの部分では「個人的な体験」で言っている意味がほぼ変わらなさそうです。つまり「クオリア」なんて持ち出す意味は、あまりなさそう。
煎じ詰めてしまうと、〈「個人的な体験」って、情報としては共有できない。だけど、価値としてはみんなで共有できるよね、きっと〉みたいなことを言っているだけなのでしょう。そして、だからこそ受け入れられているのではないかと思いましたね。
実は、もっと言っちゃうと、ここで彼が語っている「クオリア」は、サトルエネルギー学会が言っている「波動」そのものと言ってもいいかもしれません。poohさんの「愛・感謝」がヒントになってるんですが、置き換えて読んでみるとちゃんと意味が通じちゃうですよ。ってことは、ほぼ「なにも言っていない」のに等しいってことじゃないかとか……(-_-)
いや、期待しないで読んでいるどころか、頭っから疑いの目で読んでいるのでそう見えるというバイアスは勘定に入れないといかんかもしれませんが、それにしても……。
おまけで、下記のブログを紹介しておきます(別にpoohさんに向けて、ってわけでもないですが)。
茂木氏の学士会(東大の同窓会)夕食会での講演録に関する記事です。
http://markwaterman.blogspot.com/2007/09/dr-mogi-who-qualia-ah-junk-science.html
けちょんけちょんなんだけど、偏見に満ちてしまった私の目には、全然不当な評価とは映りませんでした。夕食会に出席したOBのみなさんの困惑やら憤りやらを想像しちゃいました(苦笑)
あ、この記事、コメント欄にdeepbluedragonさんこと蒼龍さんもおいでですね(^^)
2001年の「くろきのなんでも掲示板3」での茂木氏の投稿を読むと、そこまでわけのわからん人という印象ではないんですけどね。
http://www.math.tohoku.ac.jp/%7Ekuroki/keijiban/e0009.html#e20010512103853
まあ、それでも、この投稿に対するくろきさんの評価の方がうなづけちゃうんですが。
http://www.math.tohoku.ac.jp/%7Ekuroki/keijiban/e0009.html#e20010512203220
ようこそおいでませ
「クオリアがわかったとして、だからなんなのだ」なんてことを思っているわけではないのですが、少なくとも今回改めて、茂木氏の一般向けの言説の一部を読んでみて、いよいよ怪しいなあという印象は深まりました(^^;;
ぼくが読んだ範囲では思いつきに基づく訓話以上のものはなかったのですけど、あれが「脳科学としての茂木流クオリア」を根拠にしているのだと強弁するなら、ある種のニセ科学に近いのかもしれないとは思います。しかしいかんせん、ぼくが読んだ範囲ではぜんぜん科学の話とは思えず……。これは認知科学や脳科学を知らないからじゃあ、ないと思うのです。
で、構図は違うのですが、マイナスイオンについて「あれは負の大気イオンのことで」と言っている学者さんがおいでなことを思い出しました。また、同じ用語が隣接分野ではある程度違う意味合いで使われていて、なんていうことも、あるような気はします。
それでも、心の哲学とか認知科学においてのクオリアとは全然違うイメージで世間に広まってしまうと、やりにくいのでしょうね。
>正統な脳科学ではクオリアなんて調べられない
くろき掲示板での投稿を見ると、茂木氏自身も「いまのところは自分のクオリア論は反証可能性がない仮説(というか解釈)だ」という自覚ぐらいはありそうですよね? きっと同業者からは「そりゃ脳科学じゃないどころか、科学じゃない」というぐらいのツッコミも、山ほど受けたんじゃないでしょうか。
ただ、それを素人に向かって説明してなさそうなところはまずいと思いますが。
インタビューからの印象でしかありませんが、茂木氏はニューエイジとかにも違和感をもっていないようですよね。これはもうぼくの妄想でしかないんですが、願わくば、たとえば船井系や「波動」系まで手を広げちゃって、サトルエネルギー学会なんかを世間に認知させる回路として機能しちゃう……なんてところまではせめて行かないで欲しいなあと思います。
>「なんだかよくわからない違うものを、同じ言葉で説明するな」
そうですね。それは私も感じました。
先ずは、茂木氏の本を読まないといけないですけど、皆さんの評価をみるとケチョンケチョンなのでその気も失せてしまいます。
皆さんのコメントから想像するに、茂木氏は哲学でも科学でもない話をしているような印象です。
蒼龍さん、コメントありがとうございます。直接蒼龍さんのブログに投稿したほうがよかったですね。
>それから、科学者もクオリアについて述べることはありますが、(それはあくまで推論であって)直接調べられるかのように言うことはあまりありません。
確かに、科学としてのクオリアはやっと研究可能性が検討され出したところですね。ラマチャンドランの本を読むと、今のところ実現可能性は全くありませんが、直接調べるアイデアは書いてありますね。また、クオリア問題に手をつけられない障害があるように感じるのは、言語の翻訳の問題一般に伴うことであり、クオリア問題に特有のことではないという記述は、なんとなく腑に落ちました。
http://www.kikuchinaruyoshi.com/dernieres.php?n=070804023322
表現の現場にいるひとからの茂木氏評です。
ニセ科学批判にぼくみたいな裾野な奴まで加わって一見盛り上がっているように見えるのも(ぼく自身はそうは思いませんが)最初の段階で専門家の方々が専門知識のない読者を想定して、それら読者にどうやって言葉を届けるかについて心を砕いてらっしゃったからだと思います。まぁもちろん「そのひとがそのひとにできることをやる」と云う大原則にはなんら変わりはないのですけれど。
私も茂木氏の本をそれほど熱心に読んだわけじゃないですが、処女作の「脳とクオリア」は比較的マトモな著作だと思います。ただし自腹で買うほどの価値があるとは言いません(手間暇かけるほどかも怪しい)。この著作なら本人のサイトに要約(http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi/qualia-summary.html)もある(ただし分かりにくい)。
科学者によるクオリアへの言及についてならラマチャンドランもいいですけれど、ハンフリー「赤を見る」もお薦めです。日経サイエンス2008年2月号にある意識研究の記事も面白いです。有名な脳研究者のコッホとグリーンフィールドとがそれぞれ意識の脳における局在説と同期説とを擁護しています。茂木氏の本を読む暇があるぐらいなら、これらを読む方がよほど有意義ですね。
>私は専門家ではありません
あ、これは失礼しました。確かに、上での書き方は、まるで認知科学の研究者かなにかのように読めてしまいますね。プロイールでの表現をお借りすると「学生時代は心理学専攻で、今は単なる哲学好き」ということですよね。
でも、立場的には、たとえば私なんかとはそれなりに違うんですよ。私は「理系じゃない」「科学者でも教育者でもない」どころか、科学はおろか学問に関する専門的な訓練も受けていないので、「文系です」とさえ言えない。その点、心理学を専攻されたという蒼龍さんは、少なくとも私なんかよりも、もっとずっと「専門家」に近いと感じています。
おそらく、哲学科や心理学科を出られた方や院生の方々には、難なく読みこなせるものなのでしょうね。ひょっとすると、茂木さんの書いたものも読んでいる必要があるのかもしれませんが、メインターゲットは茂木さんの著作なんかを読んで、なんとなく受け入れちゃっているような院生とか、そういう感じなんでしょうかね。
>私には茂木氏に言ってることがそうした言説と内容的にはあまり変わらないように思えるのは気のせいだろうか。
やっぱり、そうですよね。
どこまで安心してよいのやら。
>茂木氏の本を読む暇があるぐらいなら、これらを読む方がよほど有意義ですね。
(^◇^;)ごもっとも
蒼龍さんは、専門家があまり表に出て話をしてくれないとおっしゃっていますが、いわゆる疑似科学やニセ科学について、ほとんどの自然科学の方々は黙殺で応じているのと同じようなことなのでしょうかね。
ひょっとすると、エセ哲学なんていうものは無茶苦茶古い歴史がありそうだし、蔓延もニセ科学の比じゃないのかもしれないですし、ほとほとイヤになってるのかな。
認知科学の方々は、そもそもジャンルとしてあまり世間に知られていないという意識もあるのかな。機能主義の説明から入らないといけないのだとすると、手間ばかりかかってあまり読んでもらえそうにないってこともあるのかな。
あ、あまり実害がなさそうってのもあるか。ううむ、前途多難っぽいなあ。
茂木氏の例は、エセ哲学とかエセ認知科学とかいうよりも、「間違った通俗的な理解が広まっている例」なのかもしれません。この辺は、ほんとにぼくにはわからないですけど。
もっとも、どっちであっても、その問題を理解できる誰かが、一般の人にもわかるような批判を展開してくれるといいなあ、そうじゃないと茂木式クオリア話の広がりに歯止めはかからないよなあ、とはやっぱり思ってしまいます。そういう意味では「認知科学を知っている立場からするとおかしい話にしか見えないはず」ということを知っただけでも、ぼくにとっては収穫です。
批判が必要だとして、それを誰がするのかというのは、やっぱり難しいですよね。ぼくの立場としては、専門家であってもなくても、やれる人なら誰がやってくれても歓迎です。極論すれば「説明抜きで結論だけ」だって、ないよりはずっといいとも思います。結論だけだと当否は判断できませんが、「その世界の人で、まともに相手ができんと考える人もいるのだ」ということがわかるだけでも、やっぱり収穫だと思うのです。
そりゃ、「ほんとのところ、脳科学も含めて専門の人は茂木氏の言説をどう考えているのか知りたいなあ」とは思いますけどね。たとえば、日本神経科学学会の代表、津本忠治氏は「脳ブーム」を批判して、問題のある言説は指摘していかないといかん、っていう話を学会誌なんかにもお書きになっていますよね。そこら辺は、ゲーム脳、脳トレ止まりで茂木氏は含まれないのかなあ、なんて思うし(続編を期待したいなあ(^^;;)。
なにしろ、そういう情報がないと、私あたりは今のところの「よくわからないけど、怪しそう」「わかる範囲では、通俗若者論とかと同程度の話しかしてなさそう」という程度の理解からは、なかなか先には進めないです(^^;;
> 私一人にいろいろ期待されても正直言って困る。
そのとおりでしょう。お気持ちは分かります。だれでもそうです。
なので、「みんなして疑似科学批判には懸命なくせに、こういう大物の批判はろくにしてくれない*1(せいぜい批判が自己目的化した内輪受け)。」とか云われたときの気持ちもお分かりいただけると思います。
たいていのひとは、自分が問題だと思っていて、そして自分が有効かもしれないと思った行動を取ります。それしかできません。誰が大物か、とか云うのは別の議論です。
「こちらの方が大物だ、こちらを論ずるべきだ」と思ったら、当然ながらまずそのことをどう届けるか、を考えるべきです。いや、もちろん「そうしなければならない」ことはまったくないのですが、ネットの言説において「届かない」ことで誰かを責めるのは筋違いです。
>メインターゲットは茂木さんの著作なんかを読んで、なんとなく受け入れちゃっているような院生とか、そういう感じなんでしょうかね。
結果としては当たっていなくもないですが、私の知ってる範囲では人文系の学生やコンピュータ関連の社会人で理解してくれている方もいらっしゃいます。やはり以前から認知科学や脳科学に興味があった人の方が分かりやすいようです。あれより分かりやすくとなると、まず茂木クオリア論そのものを分かりやすく説明しないといけないが、そこまでする気力は私にはさすがにない(認知科学の普及活動で手一杯)。
私自身があれを書こうとしたきっかけは(マトモと思っていた)心理学者(数名)が茂木氏を信用していたことでした。それから、茂木氏が心理学や認知科学の学会に呼ばれることが(一時)多かったのも私には不可解でした。実は茂木氏を怪しいと思っていた人が結構いたことが最近になって分かってきたので(その人たちは)黙殺状態だったのかもしれません。
しかし、最近は批判しやすくなったけれど、私がブログを始めて間もない頃に茂木氏に否定的な言及をしたときはまだブームの真っ最中(2005年頃)なせいか、かんばしい反応が得られなくがっかりしてその話題は封印したこともあります。私としては、ブーム時にきちんとした批判が出なかった(出せなかった)ことが一番悔しい。
>脳科学も含めて専門の人は茂木氏の言説をどう考えているのか知りたいなあ
私もそれを知りたいです。(専門でない)外部の人間には内部事情は分からないですからね。私としては、問題のある言説にはきちんとした学者に批判してもらうのが一番いいと思っていますが、制度的なものを含めて様々な問題があるのかなぁとも考えます。
> poohさん
私の書いたことがpoohさんに不快感を感じさせたことは認めますけれど、何でこんなにしつこく嫌味を言われないといけないのですか。私の場合は自分のブログの読者にニセ科学批判をしている人がいるから好意的に振舞ってますけど、そうでなければ怒っているか何かしてると思います。
だいたい私はニセ科学批判一般を批判してなどいませんし、必要な弁明もすでにしたはずです。茂木氏を批判する人があまり目立たない(または茂木気持ち悪いといった批判が目立つ)と言っているだけだ。第一私はpoohさん本人を批判してなどいません。せっかく書いた本人がいるのだから具体的な質問をしてください。ぐちぐち嫌味を言われてむしろこっちが不愉快です。
私はpoohさんを悪い人だとは思っていませんが、話が不毛なので私はpoohさんに対する対応をこれ以上しません。ネット上には(誰かに対して)これより不快感な言葉など山のようにあります(それをいちいち挙げてたら切りがない)。
嫌味と受け取られたのでしたら、直前のコメントについてはそう云う意図はないことをお伝えさせてください(最初のコメントについてはちょっとそう云う部分もありました。蒼龍さんに宛てたものではなかったので)。
フィールドの違いはありますが、どうやって届けるか、と云う部分についてはぼくや亀@渋研Xさんほか、ニセ科学に関してなにかを述べている多くのひとたちがいつも頭を悩ましている部分なんです。結論としてはまぁ、各自ができるかもしれないことをする、と云うこと以外には最終的にはないんだと思うんですが、それでも多くの批判を浴びながらじたばたを続けている。
このエントリで言及されているお書きのエントリについては興味深く読ませていただきましたし(自分自身消化できている、とは思いませんが)、意義深いものだと思っています。「届いた」範囲が充分だとお考えなら、ぼくなんかが異議をさしはさむべき部分はありません。
ただ、「充分に届いていない」とお感じのように思えたので、それなら少しお考えいただけたらなぁ、とか思っただけです。お書きのことはぼくなんかの、常識の範疇を超えない批判よりも、よほど意味のあるものだと感じましたので。もちろん、ぼくが蒼龍さんに何かを強いる筋合いにはありません。
哲学者って、結構そういう当たらし物好き?な人多いかも。
たしかアメリカの物理学者が科学用語をでたらめに並べて作った論文が、そのまんま哲学の学会誌に載っちゃったってのがありましたしね。
そういえば、養老さんも最初に評価されたのは現代思想方面からだったような覚えが。
「返答」というよりは、感想やら、独白めいた憶測やら妄想みたいな文章になっちゃっているので、こちらこそお付き合いいただいて恐縮です(しかも、ごく限定的な関心範囲でのものでしかないのに・汗)。
>まず茂木クオリア論そのものを分かりやすく説明しないといけない
想定するターゲットによっては、基本タームに関する説明までしないといけない(^^;; これはもう、ちょっとした入門記事を含めるようなことですよね。
>(マトモと思っていた)心理学者(数名)が茂木氏を信用していた
>茂木氏が心理学や認知科学の学会に呼ばれることが(一時)多かった
それはショックが大きいでしょうね。学会発表だけでも「お墨付き」として機能しちゃうことが多いのに、呼んじゃうというのはすごいなあ。
ところで、ぼくが先に「メインターゲットは」と書いたのは、「なぜぼくにわからないんだろう」という疑問ではないです(これは明白に「無知」「無学」に尽きます)。また「どういう人が理解できるのだろう」という疑問でもないです。
「挑発」まで含めて「宣伝してくれ」というんだから、誰か、あの言説を届けたい相手があったわけですよね? それは、どういう相手(イメージ程度であれ)だったんだろう、ってことです。誰に向かって書いているのか、よくわからなかった、と言い換えてもいいんですけど。
到達したい目標としては「専門家がちゃんと批判してくれること」「その呼び水として機能すること」なのかもしれないのですが、そうだとすると、こんな図式が思い浮かびます。
・専門家そのもののへの直接の呼びかけ(多分、「疑似科学批判には懸命」な「みんな」というのは、専門家のことなんですよね?)
・触媒となりそうな人への呼びかけ(ある程度の知識があって、呼びかけを広めてくれる人やその人のできる範囲で批判を展開してくれる人。その人も「呼び水」になるかもしれない)
・茂木式クオリア話を受け入れちゃっている人への警鐘
ほかにもあるかもしれないし、この全部という可能性もありますね。
いや、ぶっちゃけ「苛立ちをぶつけただけで、相手が誰なんてことは考えてない」ってことだっていいんですけど、まあ、とりあえずその可能性は置いておいて(^^;;
ただ、この中に「哲学も認知科学も知らない、普通の人」が入っていないようすなのは理解できているつもりです。で、それを「もったいないなあ」って気持ちはあります。茂木式クオリア話をなんとなく受け入れちゃっている人は、そういう人が多いだろうから、せっかくの批判が、読みこなすためのハードルが高いのはもったいない。うん。でもまあ、それは「やれることをやる」で追いつかない部分だったら、どうしようもない。
ぼくには中学生の子どもがいるんですが、だから「中学生にわかるようなニセ科学FAQ」とか「義務教育の教員向けのニセ科学FAQ」って考えなくもないけど、自分がまだ理解しようとしているレベルなんで、さすがに手を出せる気がしませんし、それを責められても困る。
さらに言っちゃうと、読んでみて「誰に向けているかわからない」のがボクだけでなかったら、流れ弾が発生しやすいとも思います。たとえば「疑似科学批判には懸命」な哲学の専門家がいたとしても(伊勢田さんとかかな)、これを読んで「自軍に背中から撃たれた」感を持つ人はいそうです(いや、伊勢田さんがどう考えるかは、もちろん全然わかりませんけど)。これもまた、もったいない。二重にもったいないので、えらくもったいない。
「不毛だ」なんて打ち切り宣言が出ちゃったのでついでに言わずもがなのことを書いておきますけど、poohさんのコメントも、根っこは同じ感覚だと思いますよ。「不快感」もあったでしょうけれども、そればかりということではないはずです。
>哲学だと、既存の用語に新しい意味をつけちゃったり、援用したり、造語したりってのはよくあることですからね。
あー、そうなんだあ。もしもそうだとすると、哲学プロパーからは「おかしい」とまでは言いにくいのかもしれないですね。独自の拡張だと言うことは言っといてくれないと困るけど、それは飽くまでプロパー内の言説で言っておけばいいことになっちゃいそう。
ただ、その場合でも、ノスタル爺レベルの言説を学問的根拠でもあるかのように語るのはどうよって問題は残りますが(もっとも、その手のことは腐るようにあるんだよなあ……。「学問的根拠でもあるかのように」までいかなくても「学者が言っている」で過大評価されることまで含めたら、学者の問題じゃなくてメディアなり世間なりの問題だしなあ…… orz)。
「科学用語をでたらめに並べて作った論文」ってのは、『「知」の欺瞞』ソーカル事件のことですね。
「知」の欺瞞 について
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fn/
きくちくんの「ニセ科学入門」にも出てたような。
というのは、ぼくは世間での「学会発表」とかに対するイメージは過大なんじゃないかと思ってはいるのですが、それはどこら辺までいえるんだろうか、ってことが気になっているのです。
たとえば日本物理学会は、学会員なら誰でも何でも(無重力装置でもタイムマシンでも)発表できる場ってのは、この界隈(どこだよ)では有名ですよね。ある年の目録みたいなものを、菊池くんに見せてもらったことがあるので、ぼくもこれは確認済み。
運がよければ昨年の九州大学の人みたいに「そりゃ科学じゃない」とかケチョンケチョンにしてもらえるけど、ふつうは「そのセッションを見に行った人はほとんどいませんでした」「見に行った人も言及してません」が唯一の評価ってことですね。
どこでもそうなのかどうかは、菊池くんは知らないという。
ああ、オヤジに聞くと、西洋哲学系の学会のいくつかについては、わかるかもしれないなあ……。
あ、そうか、「学士会の夕食会」なんていうのについても、わかるかも。あれは基本的に同窓会ですものね。東大の学部卒とかなら誰でも入れる。というわけで、うちのオヤジも会員だったわ(^◇^;)
おそらくは、かつて『学士会報』を読んだ記憶からすると、「学士会の夕食会」なんていうのは詰まる所いわゆるサロン的なものでしかないのかな、とは思っています。本当に無名では出られないわけだし、出られるだけで名誉であるにしても、うかつな人しか「学士会の午餐会や晩餐会でしゃべった」ということだけで評価はしないんじゃないかな、とか。
もっとも学士会の晩餐会は、聞く側には学問を離れて実業界に長い人も少なくないしなあ。文系も理系もごっちゃだし。功成り名を遂げた学者が招かれて、自分の研究について分野外の人にもわかるように語ることがとても多いですよん、あれ。
自負心も手伝って、「こいつはきっと大したヤツなのだ」と思っちゃう人が多い、なんてことはあるのかもしれないですね。プロパーの人が「なんだこの程度か」と思っても、別に批判まではしないでしょうしねえ。だから、信用を得るには効果が大きいってことはあるでしょうね。
うーん、「いったい、どういう人が、どういうつもりで講演者を選んでるんだろう」なんてことは気になるような気も。現役の学者じゃなくて、専従の事務局の人が選ぶんでしょうけど。
>蒼龍のタワゴト
「タワゴト」とはっきり書いていますね。真剣に受け止めるだけ時間の無駄なのでしょう。おそらくは。
poohさん>「こちらの方が大物だ、こちらを論ずるべきだ」と思ったら、当然ながらまずそのことをどう届けるか、を考えるべきです。
なるほどです。
ただ私は、今座っている「安楽椅子」から離れて、過去の姿を振り返る事は出来ないのです(^^。
「飯が不味い。だれか早く代わりを持って来い」と言ってる方が、楽でいいです(^^。
出ましたね、斜め上(^^)
感じとしては「茂木式クオリア話を受け入れちゃっている人への警鐘」が近いです。さら何か茂木の言ってることおかしいって思った人も含まれるでしょう。私としてはそんなに特別に難しく書いたつもりはなかったので、ここでよく分からないと指摘されたのは私にとって収穫です。私には権威はないので、納得してもらうために論理的を漏らさないことを重要視したところがあります。これが難解さにつながったようです。それから、学会に呼ばれたと言うのは「学士会の夕食会」にも似てるかもしれませんし客寄せパンダだった気もします。ミニ情報として、日本認知科学会では茂木氏は戸田山さんと同じシンポジウムに出たことがあります(http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/08/post_5209.html)。私も茂木氏のすべてがダメとは思いませんが、誤解を与えすぎるところが多いです。
TAKAさんの発言はこちらではおなじみの横槍のようなので、私はスルーします。
>六@渋研Xさん
哲学者は科学がよく分からない、科学者は哲学がよく分からない。茂木氏はそこをうまくついたように思います。でも、茂木氏は(その筋では有名な)哲学者であるチャーマーズを参照してるので、哲学的意味とは違うというのは強弁くさくも思えます。
最後に
結果論をいうのは問題かもしれませんが、結局はここで取り上げてもらえただけでも十分だと思います。ニセ科学批判の人に対して誤解を招く言い方はしてしまったかもしれませんが、そうしなければこうやって取り上げてさえもらえなかったはずなので大目に見てもらいたいです(勝手な言い分かな)。茂木氏を無理にニセ科学批判で取り上げてほしいとは言いませんのでご安心ください。埒が明かないので私は去ります。ニセ科学批判これからもがんばってください!
重ねてのご教示ありがとうございます。
特に学会の件については、ほとんど備忘録に近い独白のつもりでしたので、そちらについてまで情報をいただけたのは望外のことです。
ありがとうございます。
よその流儀はわかりませんが、「きりがない」「埒が明かない」なんていうふうに「対応しなければならない」なんて感じてお気にかけていただく必要はありませんので、どうぞお気楽に。
また、気が向いたらどのエントリなりと、覗きに来ていただければと思います(無理かしら?)。
以下は、みなさまへ
話の流れのついでで、検索でここにたどりついたりするみなさまにもわかるように、このブログの流儀などを書いてみました。
コメントについて
http://shibuken.seesaa.net/article/88112250.html
かつて、茂木さんにクオリアの話を徹底的に伺ったことがあります。↓に出てる。
http://www.qualia-manifesto.com/qualiadiary/qualiadiary5.txt
僕の印象は「クオリアとは問題の答ではなく、問題そのものである」ということ。クオリアという言葉でなにかがわかるのではなく、クオリアという言葉で問題が定義されたのである。僕は今でもそう考えています。
>クオリアという言葉でなにかがわかるのではなく、クオリアという言葉で問題が定義された
そのお話で、ひとつ思い出したことがあります。
DTPの世界にカラーマネージメントっていう概念があります。おおまかには「環境の違いを超えて色をそろえるための技術のこと」なんですが、同時に方向性というか問題意識の定義なんですよね。素朴には「同じデータや同じ原稿から印刷しても、色がそろわないことってあるよね」「うまくそろえるには、どうしたらいいんだろうね」から始まって、「色がそろう、そろわないって、どういうことか」「測色って、どうしたら正確になるのか」「色のバラツキって、どうやって表したらいいのか」というような話が、カラーマネージメントっていう概念が登場したおかげでしやすくなったというような事情はあると思うんです。
そういうのと似たようなところもあるのかな、なんて思ったのであります。
でも、もしもそういう位置づけなのだとすると、やっぱりイデアとの違いさえわからないんですけどね。感覚や個人的体験のイデアみたいなものを考えるために、茂木氏は哲学用語を借りて来てクオリアと名付けてみた、って感じのことなのかな。
ただ、クオリアといっただけで何かが解決したかのような印象を持つのは間違いでしょう。なんか、世間ではそういう印象操作が行われているような気がするけど