何を隠そう、俺は実は「ニューアカ」「ポストモダン思想」の類がまったく苦手なのだ
ぼくの場合は、隠すもナニも、アカデミズム自体に暗いことを何度も書いています。しかし、だからといってニューアカとかポストモダンについてもダメなのかというと、実にまったくそうなんです。ダメです。
ぼくもその辺、ぜんぜんわかりません。ていうか知りません。「言説」ってディスクールの訳語だったんですか? 知らずに使っていました。ていうぐらい知りません。だから、多分、アレルギーはありません。鼻も出ません。咳も出ません。
流行ってましたねえ、ニューアカとかポストモダンとか。中心に空白があったりするのも、そうじゃありませんでしたっけ。アレは誰だ、いま道路行政をどうのこうのしている人じゃなかったか。あ、猪瀬直樹だ。って、それは孫引きか。っていうぐらいです。
ぼくの周辺では『構造と力』じゃなくて『逃走論』でした。大学の合宿所で、サークルを横断した読書会をやったような気がします。後輩のリクエストだったかも。内容は、もちろんカケラも記憶に残っていません。
ええと、ぼくはご存知のように(誰が)『構造と力』はおろか、「新人類の神々」なんか読むために『朝日ジャーナル』を買う金があるんだったら、『ニューミュージックマガジン』(もう、ニューが取れてたかな?)かマンガか中古LPを買うようなヤツでした。もちろん、酒を買った後で、です。今でもそうかも。
む。雑誌と言えば、『SG』とか『GS』とかいう雑誌ありませんでしたっけ。違ったかな。なんの略だったんだか、忘れてるなあ。そういえば、地図上にGSとあって「?」となったのも大学時代でした。それがガソリンスタンドだと気づいたときには驚きました(なんでだろう)。ぼくは当時も今も、SGはギブソンのアレで、ギブソンのSGだったらトニー・アイオミとかステイタス・クォとかクリームのときのクラプトンです。GSはグループサウンズです。でも、ニューアカでポストモダンな人は、テクノってことになってたんですよね。プラスティックスとか。
ぼくの周辺では、哲学科のあいつがアサダアキラが、と言ってましたが、テクノは聞いていませんでしたね。今は社会科の先生だ。
文研のあいつもアサダアキラが、だったけど、フォークだったなあ。今は大学だか予備校だかの講師だったかしらん。
田舎(埼玉県熊谷市)だったからですかね。
そういえば、哲学科のあいつは斉藤由貴が従姉妹だとは言っていましたが、スケバン刑事のファンではありませんでしたね。原作ならオレが読んでいましたが。ポストモダンだなあ(どこが)。
とにかく、それぐらいニューアカ用語もアカデミズム用語も知りません。覚悟しろ(だから、誰が)。
「それなのに、なぜ」って。
「なぜ」の後はなんだったんだっけなあ。「なぜ、そんなに自信満々で人に反論する」とか「説得力がある」だったかなあ。そこら辺で、しょっちゅう議論してたから。
まじめな勉強家の人には「フィクションにたっぷり親しんだ人の力量」というのは、意味不明で気持ち悪かったのかもしれませんね(^^)
私は、高校卒業まで学問の が の字も意識した事が無く、その後、ほとんど偶然に、あるきっかけで、学問を勉強しようと思ったクチです。
で、そのきっかけとなった本(の群)に、ポストモダン的な用語が鏤められていまして、「こりゃ何だ?」と思ったものです。デ・コンストリュクシオンとかリゾームとか、そこら辺のが(笑)
それで、意味が解らないから、哲学史とか現代思想の本を読むのですが、全く意味が解らない(笑) 周りに哲学やらに興味がある人も皆無ですから、自分で勉強するしか無いのですが、あまりにも意味が解らない(しつこい)。
でも、用語だけは憶えるんですよねえ。もうほとんど忘れちゃいましたけど、なんか色々憶えていました。
私は、「ブームだった頃」を全く知らないので、大分後になってなぞろうとした、という感じなのですよね。世代的にちょっと違うので、へー、そんな事があったんだあ、という風で、興味深いです。
>「フィクションにたっぷり親しんだ人の
>力量」
侮れませんよね(笑) 私の友人は、そんな感じの人達で、なかなかの力量であります。なまじ「理論」を知らないだけに、「論理」で攻める事が出来るんですよね。書いてて、意味がよく解りませんが。
「勉強しなかった」という話には、お互いついつい反応してしまうサガがあるようで(^^;; いや、やぶいぬさんの話はそうじゃなかったんだけど(^^;;
>用語だけは憶える
そうですねえ、始末が悪い(^^;; クオリアの先生も同じなのかなあ(汗
>なまじ「理論」を知らないだけに、「論理」で攻める
学部生同士だと、まだ知識の有無がそんなにハンデにならなかったってこともあったんでしょうね。いま、ちょっとややこしいことに首を突っ込むと、もちろん素人考えの穴に落ち込んじゃう可能性もあるんですが。