2008年03月02日

学校教育になにを期待するか

書籍『信じぬ者は救われる』、本日発売(らしい)」のコメント欄で、田部勝也さんから、こんなコメントをいただきました。
>少なからぬ人たちにとって、「信じる」と「信じたい」とが同義語なのだ。あるいは「信じたいこと」と「事実」が同義語なのだと言ってもいい。

自分は、その事にずっと問題意識を持っていて、そのために理科教員を目指し、実際になりました(辞めたけど)。自分自身は、そういう「少なからぬ人たち」がいるのは、理科教員としての自分のせいだという職業的な自責の念に、ずっととらわれています。自分が、こんな「少なからぬ人たち」を育ててしまったという、原罪に近い罪悪感と言っても良いかも知れません。


それで、前々から書きたいと考えていたことを、思い出しました。「ぼくは学校に期待していない」ということと、「PISAの結果って、ちょっとすごい」ということ、そして「その結果を出したのは、現場教員だ」ということ。
それをちょっと書いてみます。

■ぼくは学校に期待していない
そもそも学校というものにほとんど期待していない自分にはっきりと気づいたのは、上の子どもが小学校2年生になって、参観日の後で家内が「あれって学級崩壊なんじゃないか」みたいなことを言い出したあたりでした。

ぼくもその授業参観には行っていて、「うわ、なんだこりゃ、ひでえなあ」とは思ったけど、「あんな指導じゃダメじゃないか」とか「学校はなにをしてるんだ!」とは思わなかったんですね。いや、初任者の教員は「余裕がないなあ、あれじゃダメかもな」とかは考えたし、その初任者にまかせっきりなんじゃないかという危惧はもちました。で、カアチャンの求めに応えて手紙は書きました。「保護者にもなんかできることがあるだろうから、一人で抱え込まないでくれ」とか「学年で問題を共有できているのか」とかっていう内容。それを担任の先生に出しました。
でもまあ、こういうのは「社会現象」みたいに思っていて、「うちの子が」みたいなことは思わなかった。なんでオレはカアチャンやよその親みたいに「うちの子が」と思わないんだろうと考えてみたら、そもそも学校にあんまり期待していない自分に気づいた。そんな流れがあります。

ボランティアだ学校評議員だなんだで学校に出入りするようになってから、さらにハッキリしました。学校について「はあ? なにそれ?」と思うことはあったけど、それは例えば「こういうことをやるって決めたんでしょ? だったら、その対応はおかしいじゃない。ボランティアで参加しようと考えていた親たちが失望するよ、担当の教員が消耗するよ、それでいいの?」というようなことで、「オレがイヤだ」も「うちの子が」もほとんどなかったんですよ。
無私なんじゃないんです。めんどくせえなあ、とか、引き受けるじゃなかったかなあ、なんてことは、考えるんですから。子どもがかわいくないわけでもありません。彼らの抱えている問題には、ちゃんと対処しようとしてきたつもりです。
でも、そういう「ウチ」がからむシーンでは「学校がダメだ」とは、ほとんど思ったことがない。「先生の、その対応はオレもおかしいと思う」とかってことはあるけど、しょせん、先生ってふつうの大人だし。学校って、そういう人の集まりだし。

■なぜ期待していないのか
期待しなくなったきっかけは、おそらくは、自分の子ども時代の負け惜しみ(受験の度重なる失敗(^^;;とか)みたいな感覚などが影響しているのだろうと思います。その後は、社会に出てから「世間って」とか学んだこともあるんですけど、会社員時代も「取引先が変なことを言う」なんて愚痴に対して「ああ、版元ってアホが多いからねえ」なんて平然としてた。部下だった当時のカアチャンに「理不尽から部下を守るのも上司の仕事だろう」と指摘されるまで、「相手(取引先)はアホなので、道理を期待しても始まりません」と本気で思っていた。最悪の管理職ですね(汗)。
学校も、同じだと思っていたようなところがあります。

ポストモダンとかニューアカとか」で、自分がぜんぜん勉強しなかった話をちょっと書きましたが、いま振り返ると、勉強することというか、調べたり考えたりそれをまとめたりすることは、子どもの頃から全然苦にならない。というか、むしろ大好きだったんです(覚えるのは嫌いでしたけど)。
今もそうなんだろうと思います。日常化していて、特にそれがうれしいとかってことはありませんけど、するなと言われたら苦痛だろうなあと思います。編集者だのライターだのという今の仕事は、そういう意味では天職だと言われることもあります(これはつまり、ぼくが「人よりも抜きん出た成果を残せている」とは、ぼくも周囲の人間も思っていないわけですね(^^;;)。

勉強嫌いで、宿題もろくにやらず、学校にうまく適応できなかったようなところがあるけど、自分の「学校に期待しない」が教員のせいや学校のせいだとは、ぜんぜん考えていません。いや、学校に責任転嫁して考えていた時期もあったと思いますが、少なくとも今はそうは考えていないんですよ。「あんなもんだ」と思っています。
ていうか、いまは逆です。

■PISAの結果って、ちょっとすごい
100人のうちの60人も70人もが、それなりの市民に求められる識見(あるいは、その素養)を備えていて、残りのうちの大半もそれに近いレベルに達している。それが、3度にわたるPISAの調査結果だとぼくは認識しています(詳細は「PISAが測っているのは「学力」「応用力」ではない」に書いたような気がします)。無回答の割合とか、その「残り」の「残り」が増えているとかいう問題がないとは言いませんが、これは、現状だってものすごい成果だ、ほとんど奇跡的と言っていい達成度だと考えています。

だって、たとえば「証拠に基づいてものを考える」なんてことを、どれぐらいの大人ができていますか? いや、できていなくても「そうあるべきだ」と考えている(はっきりと理解している)大人が、どれぐらいいるでしょう? 少なくとも8割近いなんてことはないんじゃない?
学校に期待しないなんて言っているボクがいうのもおかしいですが、「学校で得た知識なんて社会に出たら役に立たない」なんて言っている大人が、同じ口で「勉強しろ」とか言ってるのに、どうしてこんなにたくさんのちゃんとした子どもが育ったんだろう、って不思議じゃないですか?

■すごい成果を出したのは、現場教員の努力だ
これを達成したのは、指導要領でも学校の運営方針でも教育評論家の意見でもなく、無名の教師たちの営々たる努力だと確信しています(ということを、先日同窓会みたいな席で、無気力に陥りそうになっている教員=同期生たちに向かって、半べそをかきながら力説してドン引きされました)。

文科省や教委が理不尽で無意味なお題を学校に持ち込んでも、それをなんとか有意義なものに変質させて教室で展開しようとしている教員たちを、何人も見ました。カリキュラムがアホアホなことになっても、エラいさんが客受けをねらって余計な仕事を増やそうとも、子どもたちが教室で過ごす時間をアホアホなものにしないために必死になっている教員たちが、8割とかの「まっとうな市民」予備軍を育てたんだと考えています。

そりゃ「ちょっとどうなの?」と思うような教員もいますけど、まともな親だってまともでない親だっているんだし、子ども同士の影響だってバカにならないし、近所をうろうろすればアホな大人にも素敵な大人にも出くわします。「どうなの?」な教員が義務教育の9年間をずっとくっついてくるとでもいうのでない限り、希釈されるんですよ。そうでもなきゃ、PISAの結果の説明がつきません。

義務教育の教員が9年間かけて育てて来たものを、社会に出る前後の数年で白紙に戻し、さらに「考えるな」にしてしまうのが、世間の多くの大人たちだ、そういうことなんじゃないでしょうか?

■学校が担うものは、もっと限定的でいい
ぼくは今も「別に学校になにかを期待していない」というスタンスを崩していません。口ではそう言います。だけど、こりゃ標語みたいなもので、よくよく自分の胸に手を当てて考えると、ぼくが言いたいのは「学校依存症になっちゃダメだ」ってこととか、「学校の役割を、もっと限定的にすべきだ」ということです。

教員がせいせいと呼吸できない学校で、子どもたちがせいせいと呼吸できるなんてアクロバティックなこと、長く続くわけがないんだ。教員に過重な責任を求めるべきではない。
プライドのある先生方には、そんなこと言われたくないという思いもあるかもしれません。けど、学校が(いや、ほかのなんでもそうだけど)すべてを背負うことなんか、できない。それなのに、学校は人間育成のすべてを背負わされようとしている。80年代あたりから、全人教育に向かい続けている。

教員の多くが善良なために、そのほうがいいと思わされているのかもしれません。でも、ぼくは違うと考えています。「学校ができることは限定的なんだ」ということでいいんです。ただし、そのことを(そして、どういうことしかできないのかを)、できるだけみんなが知っていないければならない。
もっと言うと、「親ができることは限定的なんだ」「人間ができることは限定的なんだ」「他者に期待できることも、自分に期待できることも、人生に期待できることも、すべて限定的なんだ」ということを、みんなが知っていなければならない。

小学校の教員が、ちゃんと教材研究に時間を割くことができて、個々の子どもたちと向き合う時間をふんだんにとれたら、『水からの伝言』なんかに頼って「言葉遣いの改善」に即効性を期待するなんてことは、思いもしなかったんじゃないでしょうか。

過剰な期待や過剰な責任感は、結局のところ自分を(あなたを。あらゆる人を)苦しめるだけだ、そう考えています。


posted by 亀@渋研X at 03:29 | Comment(11) | TrackBack(0) | 学校とか教育とか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 学校教育になにを期待するか
この記事へのコメント
”当時のカアチャン”って表現にドキッとしてしまいました。 "当時部下だった"んですね。 ^^);  茶々入れてばかりですみません...

本題に入りますと、確かに日本の先生方は何でも抱え込んでしまって大変だと思います。 くだらない話ですが、私の子供らの学校(アメリカの公立小学校)なんかでは、算数ドリルの採点だとかプリント配布物の準備みたいな単純な仕事は保護者のボランティアがやっていることがあります。 日本だったら「手抜き」とか言われちゃうかもしれませんが、そんなことだけで一日30分でも1時間でも(あるいはそれ以上?)教師が「個々の子どもたちと向き合う時間」や「教材研究に時間」を余分に取れるのならばいいことだと思うのですが。 例えば、ドリルの採点に使う時間を算数の理解が遅い子の個別指導に当てられたりできるわけです。

それから、「学校が担うものは、もっと限定的でいい」ということとも関連すると思いますが、日本とアメリカの学校のとても大きな違いの一つは、「Mr.インクレディブル」みたいなアメリカのファミリー向け映画にはそういうシーンがよくありますが、子供が学校で問題を起こすと親が学校に(実に気安く)呼び出され「どうにかしろ」と子供をつき返されてしまうことです。 親の職場に校長先生から電話がかかってきて、子供を引き取りにこい、ちゃんと家で言い聞かせろ、と。 親は職場を早退して学校に子供を迎えに行かなくてはならない。 これは親子共々にインパクトあります。(経験者談) 「問題を起こす」といっても、犯罪になるような大げさなことではなく、一事が万事というか初めが肝心ということなのか、小学校の1年生が先生の指示をちゃんと守らなかった、なんてことで校長先生に呼び出されたりするわけです。(担任の先生は一人のアホな生徒の為に他の生徒たちを放っておくなんてことはできないので、こういうことは校長先生の仕事) つまり、子供が学校で授業を受けられるようにしつけるのは学校の仕事ではなく、家庭の役割である、というわけです。 この辺のところは日本の学校はもっと毅然としててもいいんじゃないかと思います。 そもそも親が自分の子供のしつけを学校に期待するようじゃ、「終わってる」って感じですし。 学校が人間育成だの全人教育だの、おこがましすぎますよね。 多分、「少国民」の育成をめざした戦前の「国民学校」からの伝統なんでしょうけど。 (あ、もちろん、アメリカの学校にもいろいろ問題はありすぎるほどあります。 言うまでもないことですが)
Posted by kurita at 2008年03月02日 05:36
今日は。

1000%同意です。
自分が常々考えていたことを纏めて下さった、と思えるくらい同意です。

学校に何かを過度に期待すると、拘束されてしまう気がします。時には、逃げ道を自分で塞いじゃう事になったり。
そうで無くて、そんなに何もかも求めなくてもいい、他にも色々ある、という風に考える方が、良いと思っています。

時には「一歩引いて見る」、と言うか。それは無関心というのとは違んですけどね。無関心が高じて、逆に嫌悪感を持ったりする場合もありますしね…(自分の事です)。学校なんて無い方がいい、みたいに。でも、それはそれで全然ダメなんですよね。
Posted by TAKESAN at 2008年03月02日 11:22
3点だけ、取り急ぎ。

まず、「学校にできる事/できない事」「学校が担うべき事/そうでない事」については、私が現役の教員をしていた頃には、なによりも一番強く周囲に問題提起していた事だという点。
都合3校に勤務しましたが、そのうちのある1つの学校を辞めたのは、明確にその点についての齟齬が原因です。

次に、apjさんのトコに書いた事を読んでもらえれば分かると思いますけど、私自身は、「“信じる”と“信じたい”とが同義語」ではない、「あるいは“信じたいこと”と“事実”が同義語」ではないという事を子どもたちに叩き込む事こそ(そして、できれば、一人のちっぽけな人間が“信じたい”と思うような事なんかよりも、自然はもっともっと凄くて素晴らしくて、直視し真摯に向かい合うだけの価値のあるモノだと感じてもらう事こそ)が理科教員の担うべき役割だという(たぶんあまり一般的ではない、もしかしたら傍迷惑なだけかも知れない)個人的な価値観・職業的矜持を持っているという点。
だからこその問題の(?)コメントなわけです。

最後に、亀@渋研Xさんの今回のコメントに対する反応、その「優しさ」「心遣い」は(「ぬるい」と感じる人も多いのでしょうけど)嬉しかったです──という点。

今日朝一に締め切りの仕事がまだ終わっていないので、以上、取り急ぎ。
Posted by 田部勝也 at 2008年03月03日 00:54
ちょっと2番目の点だけ訂正。
理科教員の担うべき役割は、もちろん自然科学の教授です。で、その上で、上に書いたような事もできる立場でありながら、しなかった、できなかった──という悔恨の念を、私は勝手に抱いているという事ですね。
まぁ、よくある、「あの時、ああしていれば……」という話と似たようなモノだと思って下さい。
Posted by 田部勝也 at 2008年03月03日 01:24
>kuritaさん

>日本の先生方は何でも抱え込んでしまって大変

抱え込んでいるのか、抱え込まされているのか……、いや、どっちにしても同じか。なにしろ、大変なようです。
うちの地元では教育ボランティアの導入は盛んなんですけど、それが先生の手間を増やす場合だってありそうだし。改善しようとしても、難しいことも多いですね。

「親に突っ返す」ってのはいいですね。日本ではそうしないのは、仕事観みたいなものもあるのかな、なんてこともちょっと思いました。仕事優先みたいな感覚が社会にある。公私の区別が違うっていうか、滅私奉公みたいなもの? これも国民学校由来なのかしら。

>TAKESANさん
「いろいろあっていいのに」っていうのも、そこだけ取り出すと変な相対主義とかに取り込まれやすそうだし、どっから手をつけたらいのか。

ぼくみたいに他者への期待度が低いと、いろいろとストレスが少なくて楽なんですよ(^^) 

あ、なんでも期待度が低いわけじゃないか。優先順位の問題もありそうな気がします。たとえば、田部さんがapjさんのところでおっしゃっていたような点こそは、ちゃんと押さえないといけないのに、どうでもいいようなところが……なんてね。

>田部さん
遅くなりましたが、apjさんちでの田部さんの投稿をやっと読みました(あのサーバーは、夜中に一定時間止まるのかな? 昨日、おとといは読めませんでした)。

at 2007/03/14 21:11:09
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=4411#com4492
at 2007/03/15 1:10:39
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=4411#com4498

apjさんのエントリでのここまでの議論を全部読みこなせたとは思いませんが、田部さんのおっしゃる「自責」っていうのの典型は、「時間がなかったり教員の力量が足りなかったりするために」っていうあたりですよね、きっと。

当事者が十全な成果は挙げられなかったと考えて、さらによい方法なりを模索するのはいいんです。っていうか、有意義とかいうより、それがないとマズいとも思うのです。が、今、公教育に期待されているものは、そこら辺の重要な部分を放り出してサービス産業化していこうとしてたり……ああ、言わずもがなでしたね(^^;;

多分、ぼくは人間っていうイキモノを、そんなに出来のいいものだと思っていないんですよ。「出来損ないだ」ではないんですけどね。

その辺は、以前「よいものを見たのでおすそわけ」っていうエントリの終わりの方でも書いたことがありました。
http://shibuken.seesaa.net/article/35760084.html

こういうところが「版元が理不尽なことを言う? 当たり前だ」みたいな反応になって、中学の頃から「亀さんは冷たい」→「亀さんは完璧主義」→「だから嫌い」なんていう評価をされたりも。
また話がずれてしまった(爆)
Posted by 亀@渋研X at 2008年03月03日 19:07
kuritaさんがご指摘の「もっと気軽に親を呼び出せばいいのに」に関連して、さっきNATROMさんちで読んだ、下記の記事が引っかかりました。

2008-02-29 未成年への輸血はどうすべき?〜エホバの証人
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20080229#p1

引っかかったのはコメント欄での「日本では親の裁量の範囲がきわめて大きいと思います」という指摘です。

「学校は親の教育方針に口を出せない」という認識が、日本の公立小・中学校の先生方にはあります。かなり無茶な親に対しても。それで「親に突っ返す」ができない、なんてことはないのかな。それとも単に共稼ぎが多くてとか、親が退勤して来られないとか(なんでだ?)、そういうことだけなのかな。

少なくとも、学校から家庭への「お宅の教育方針は学校としては迷惑なので、どうしてもその方針で行きたいなら、よその受け入れてくれる学校へ転校なさったらいかがでしょうか」という提案は、おそらく私立学校でしかできないと考えられているのではないでしょうか。ぼくもなんとなくそう考えていたような気がします。

これ、それで正しいのかしらん、と今、思い始めました。もちろん、学校がアホなことをやっている場合も世間にはあって、そのせいで折り合いがつかないってことも、あるだろうとは思います。しかし、それは「極端な場合」「例外的なケース」なんじゃないのかな。そうでもないのかしら。ううむ。
Posted by 亀@渋研X at 2008年03月03日 23:40
> よその受け入れてくれる学校へ転校なさったらいかがでしょうか

うちの近所でも時々あるのですよ。 たとえば器物損壊だとか不適切な発言を繰り返すような子が、通っている公立小学校から放校処分(?)を受けるとかいうようなことが。 もちろん義務教育なので子供は小学校に行かなくてはならないし、大抵は近所の別の公立小学校に通うことになるのですが、(来られる方は正直言って迷惑だろうし)具体的にどういう手続きにのっとってことが進むのか知りませんが(知る必要のないことを祈ってます...)、少なくともメッセージは明確に家庭に届くでしょうね。 教室内のゴタゴタだとか生徒間のトラブルだとか教師の指導力の問題というようなレベルで納めてしまうのではなく、ある種の言動はコミュニティとして受け入れることができない、受け入れられたければ考えて出直してこい、というようなことを学校が明確に意思表示するのも必要なのではないかと思います。 本人のその後のためにも。

ただしもちろん「学校がアホなことをやっている場合も世間には」あるわけで、こういうシステムの恣意的な運用を許さないように責任を明確にしプロセスを透明化...などという最近お決まりの言葉が続くわけですけど。
Posted by kurita at 2008年03月04日 03:08
>亀@渋研Xさん「少なくとも、学校から家庭への「お宅の教育方針は学校としては迷惑なので、どうしてもその方針で行きたいなら、よその受け入れてくれる学校へ転校なさったらいかがでしょうか」という提案は、おそらく私立学校でしかできないと考えられているのではないでしょうか」

自分は学校経営のほうには深くコミットした経験がないので無責任な印象論しか言えませんが、私立学校こそできない気がしますね。
多くの私立学校は指導方針を明示していますし、入試時に服装や態度などに問題のある受験生に対してそのような助言をする私立学校は少なくないと思いますが、受験希望者の家庭の指導方針を事前に確認したりなんてしようとしたら、ちょっとした(?)トラブルになりそうな気がしますし、生徒募集にも影響しそうです。
退学や停学に関する判断をするときや、保護者を呼び出したりするときには、「学校側としては、これだけの事はしました」という、保護者が納得するだけの十分な根拠を揃えなければならない──というのは当然としても、「保護者が納得する」レベルに対して、学校側はかなり神経質になっているように感じます(その点で校長などと対立した経験を持つ教員は少なくないんじゃないかなぁ……私を含めて)。

初めて教員になった10年前から、「少子化が進むから生徒確保のためには……」といった事は、現場の教員にまで強く言い聞かされ続けてきたし、実際潰れる私立学校も出てきたりして、学校関係者にとって、そのへんの経営に関する危機感は、おそらく皆さんが想像するよりも遥かに強いものだと感じています。
顧客(あえて保護者とは書かない(苦笑))の望むモノが、「今、公教育に期待されているものは、そこら辺の重要な部分を放り出してサービス産業化(亀@渋研Xさん)」だという匂いを敏感に感じ取れば、そうなっていってしまうのは、ある意味、当然なわけで。
『でっちあげ──福岡「殺人教師」事件の真相(福田ますみ著、新潮社)』みたいな事も決して他人事ではない現状もあるわけで、そんななかで、顧客に喧嘩を売るような真似を本当にできるのか──という側面もあるのかとも思います。

──というような事をずっと批判してきたつもりではあるのですけど、いかんせん、人脈も人望もまったくない人間のしてた事なんで、せいぜい居酒屋談義以上の影響力を行使できた事はないのですけど……。

ちなみに、apjさんのブログの「指導要領解説」エントリ(↓)
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=4411
での「2007/03/16 23:59:16」のコメント(コメントへの直リンクの仕方が分からなくてゴメンなさい)に、そのへんの愚痴が込められていますね(苦笑)。
Posted by 田部勝也 at 2008年03月05日 01:38
>亀@渋研Xさん「少なくとも、学校から家庭への「お宅の教育方針は学校としては迷惑なので、どうしてもその方針で行きたいなら、よその受け入れてくれる学校へ転校なさったらいかがでしょうか」という提案は、おそらく私立学校でしかできないと考えられているのではないでしょうか」

前のコメントだけだと、あまりにも一面的すぎる話で終わってしまうので、現場の別の側面も。

あくまで私の経験談なんで、一般的に言える事なのかどうかは分かりませんが、あまりに家庭の教育状況がひどい場合や、子どもの問題の性質が家庭環境に起因するものと思わざるを得ない場合など、むしろ退学や停学にしたほうが子どものためにならない──という判断から、結果的に学校で抱え込んでしまうような状態になってしまう場合も実際にあったりします。
教員の「子どもよりも親の教育をしたいよね」という笑い話というか愚痴というか、そんな話は、教員のブログをいくつかウォッチした事のある方なら、一度くらいは目にすると思いますけど、そんな時にどうすればいいんだろ──というのは、ちょっと悩ましかったりします。

また、そうでなくても、日本では、退学や転校(業界では「進路変更」と呼ばれたりします)が、その子のキャリアにおいて過剰に不利・足枷になる傾向が強いので、判断の際に、どうしても、その事については考えてしまいます。

以上、私は保護者の立場になった事がないので、どうしても一方的な保護者批判・教員擁護になりがちだという点は十分念頭に置いた上で、読んで頂ければ幸いです。
Posted by 田部勝也 at 2008年03月05日 02:06
亀レスで失礼します。
ずっと前から書きたかったのですが、なかなかまとまりません。
みなさんのおっしゃることは最もです。
ただ、教育そのものの信頼が無くなるようなことになってはいけないと思うのです。
現状はいろいろあるが、学校教育も家庭教育も地域の教育も、なんとか信頼して、期待して少しでもよくしていけたらと思っております。
具体的な話ではなく、単なる願いなんですが。
Posted by ドラゴン at 2008年04月02日 18:42
ドラゴンさん、こんにちは。
ぼくも田部さんが投げかけてくださっている点について、あれこれ考えることが多すぎて、その後、なにも書けなくなっています。

>ただ、教育そのものの信頼が無くなるようなことになってはいけないと思うのです。

そうですね。そのとおりだと思います。この記事も「なにもかも背負わせようとするのは無茶だ」という話で、「なにも期待しない」という内容にはなっていないつもりです。
学校教育にも、家庭教育にも、できることはいろいろあるはずで、だからといってすべてを教育というシステムに乗せきることはできないんじゃないか。だったら、それぞれのちょうどいい加減なところを模索するのがよさげだよね、というのが今のところのぼくの立ち位置です。
具体的にそれはどういうこと? ということになると、まだまだうまくまとめられないのですが。
Posted by 亀@渋研X at 2008年04月06日 14:42
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