先日から「興味深いです」って感じで新連載も読んでました。
「バカ」とかそのへんの名言3/4(『digital ひえたろう』 編集長の日記★雑記★備忘録 2008年3月10日)
☆ 不幸な目にあうと、いくら利口な人間でも馬鹿げたことを信じ始める。── ユダヤの格言。
うあああ。
キューブラー=ロスの事例を知ったばかりだったので、思わず反応してしまいました。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/%7Ekikuchi/weblog/index.php?UID=1204070813#CID1205037972
もう20年以上前のこと、オヤジ(西洋哲学)の教え子さんが、大学卒業以来、十何年ぶりとかで訪ねて来たことがありました。
その教え子さん、仮に山田一郎さんとしましょう、在学中は全共闘運動のまっ最中で、先頭に立ったりなんだり、いろいろあって。オヤジは「おたくの学生(もう卒業生だったかな?)の山田一郎と思われる死体が上がった。親族は遠くて来られないそうなので、確認に来い」と警察に呼ばれたこともありました。あ、違うか。警察から来いと言われた親御さんから頼まれたんだったかな。
まあ、どっちにしろ、検分したそうです。センセ―って、そんなことまでするんですねえ……。もちろんその遺体は本人ではなかったから、そうやって十何年後に来訪してきたんですけどね。
卒業後もいろいろあったんだそうです。で、続けざまに身内の不幸に襲われた山田一郎さん(仮名)、とあるキリスト教の宗派に出会って救われたのだそうです。ただ、その宗派、異端やカルトともみなされることのある宗派でして。で、どうも来訪の目的は、オヤジを勧誘しようってことだった節があるんですよね……。
いや、異端やカルトかどうかは見解の分かれる部分もあるようですし、そもそも入信は致し方ないと思いますよ。自由だとかじゃなくて、やっぱりね、抱えきれないほどの不幸というか理不尽というか、そういうものってあるんですよ。なにか「自分でないもの」「自分を超えているもの」に支えてもらわないと生きていけなくなっちゃうような出来事って、あると思うんですよ。
しかし、それでも、よりによって自分に哲学の手ほどきをした人間を勧誘するってのは……無茶っていうか……。少なくとも成功率が低過ぎるだろうと思うんですけどね。もう、それしかなかったのか?
確か、年賀状のやりとりぐらいはあったのだったかなあ。大学卒業以来の邂逅となる来訪で、オヤジはそれなりにいそいそと迎えたんだったろうになあ。落胆しただろうなあ……。
ええ、情に比べれば理はなかなか伝わらないんですよ。教育なんて、必ずしも絶大な威力は発揮できないんですよ。そんなことは百も承知のオヤジでしたけど……気の毒なこった。
最初の話に戻ると、「どれほど利口な人でも」ってぐらいですから、我ら凡俗の徒は不幸どころか幸福に出会っても判断がおかしくなりますよね。感情を揺さぶられると弱いってことかしら。「いつでも理知的に振る舞える方がえらい」とかってことじゃないよ。
どれほど「ささいなことに揺さぶられないように」なんて修行を積んでも(そんな修行があるのかどうか、知らないけど)、身内の死、自分の不遇なんていう類いの、おそらくは最もありふれた、いつの時代にでも変わらずにあったことを、受け止めきれないんだよね、きっと。
嘆き悲しむだけでは済まなくて。いや、嘆き悲しむという地獄から救われたくて。
であれば、自分の死を受け入れられないのは、さらにありふれたことだよね。じゃあ、「受け入れられなくていいんだ」ってことにするのは、少しは救いにはならないんでしょうか。少なくとも「不幸を受け入れられない自分」から「不幸を受け入れられる自分」になろうとする無理は、しでかさなくてもよくならない?
頭だけで考えていることでしょうか。