そうか、またぞろそんな報道が多いのか、なんて思ったら、むらむらと書きたくなってしまった。以下、もう言い古されていることが多いとは思うのだけど、改めて。だって、そういう記事を書いているのは、ある意味「同業者」なので。
◆
もう長い間、「どうしても世のオトナの大勢は『完璧に近いバランスの人間』を求めるようだ」と考えています。例外として、「えらい」とほめるときには、逸脱加減を賞揚もしますが、基本的には「最多層よりもちょっとマシ」というような「中の上」辺りを理想型として思い描くようです(かつての「中流幻想」を思い出してしまいますね)。
「ほどほど」とか「たしなむ程度」というのが「いい具合」なのでしょう。ひとかどの者になるにはそんなんじゃダメだとは知っているのだけど、多少入れあげても「ひとかどの者」なんかに簡単にはなれないってことも知っている。だから、安心して「好きなことだけやってちゃダメ」と口にできる。いや、これはボクのなかにも同じ傾きがあります。それ自体はおかしなことじゃないんだと思う。
ただ、これが「問題行動を起こした人は、なんか問題のある背景があるはずだ」「その問題のある背景っていうのは、家庭環境・生育環境に恵まれなかったというケースが多い」「でも、それだけじゃなくて、よくない流行の類いも原因に違いない」っていうような話になると、おいおいと言わざるを得ない。
で、なんでこういう話につながっちゃうのかというと、どうも先の「完璧に近いバランス」というのがズレているのではないか。「ほどほど」とか「たしなむ程度」っていうのは、実はぜんぜん「いい具合」じゃないのに、それをバランスの取れた状態だと思ってたりするからズレていくのではないか、なんて、ここ10年ほど思い始めているのです。
■悪者が悪者にされるために必要な条件
「よくない流行」っていうのは、時代時代で違います。いまはなんか高尚なものということになっているようなアレコレだって、かつては忌み嫌われるハヤリモノだったなんてことは、いくらでも歴史上にある。
今日、子どもたちと夕食をとりながら、「二葉亭四迷の筆名の由来」なんて話が出たんだけど、文筆家というのはやくざだったわけですよね。歌舞伎や能の役者だってそうだ。楽士もそうだ。「本を読む人」というのは危険だと言われていた時代だってあるわけで。
ちょっとズレるけど、「健全な精神は健全な肉体に宿る」ってのが「誤訳」だっていう有名な話があります。どう誤訳なのかは、ほんとは「宿れかし」だとか「いや、そうじゃない」とか、いろいろあるのだけど、ここでも見てください。意外に「うわ、その先もあったのか」だったりするから。まあ、どういう解釈に落ち着いても「体を鍛えると精神にもよろしい」という話でだけはないのですよ。でもね、みんな知ってるじゃないですか。体育的な取り組みが心を育てる役に立つときもある。もちろん立たないときもある。ひねくれる役にしか立たないときもある。問題は「どう鍛えるか、どういう方針でどういう時間を過ごすか」であって、「なにをするか」は、必ずしも決定的な要因じゃないんです。これ、実はみんな知ってますよね。
これって、悪者扱いされるには新しければ十分だけど、悪者として機能するには「やり方」こそが問題だってことですよね?
■悪者が悪者として機能できるために必要な条件
今回の事件でまたもや「ゲームが」とか言われてます。でも、これはいわゆる「俗流××批判」の一種でしかなく、おそらく「自分がやらなかったことを、子どもや若者が好んでやる」「傾きが、自分の想定よりも大きい」というのが不安なだけなのではないかとにらんでいます。ですけれど、それを「そんなことをやっているからだ」「そんなことをやっているやつは危ない」とまで広げると、もう飛躍し過ぎというか、妄想に近い。
たとえば「メディアやゲームで接する暴力的表現が、実際の行動に影響を与えるか」という話がありますが、これについても、たとえば素朴なレベルでは「暴力表現を見ると粗暴になるのか、粗暴な人が暴力表現を好むのか」が簡単にはわからない(相関関係はあるんだけど、因果関係があるのかはわからない)。ポルノ解禁論議でも話題になるように、ガス抜き効果があるんじゃないかとかいう話もあります。ポルノの方は「解禁されている国の方が性犯罪が少ない」なんて話。つまり、暴力表現に接することが、暴力衝動を持つ人のガス抜きになって、実際に暴力をふるう確率を下げるんじゃないかという話にもなるわけです。
「やくざ映画を見終えて映画館を出てきた観客は、肩を揺すってやくざ風に歩いている」なんていう話があって、これは感情移入とかそういう話なんでしょうけど、「ああ、そんな感じになるよね」って話と、それって本当に粗暴になってるのかって話とが、全然区別されてない。
映画ファンの書いたものなんかを読むと、「ついついその気になって、そんな歩き方になったり、ちょっと粗暴な感じになったりするんだけど、実はちょっと怖い人に会うとすぐに地金が出ちゃう。その気になりきれない」なんていうオチだったりする。演技なんかをちょっとやろうとして人はわかると思うのだけど、表面的に真似ることと、ちゃんとそういうふうに振る舞えることとの間には、かなり大きなギャップがある。真似で粗暴なふりをしていてできることというのは、実はそんなふりをしていなくてもできることだけだったりするわけです。
わかりにくいかな。
「粗暴な気分になったときに、すごんでみせられる相手」というのは、別にふつうのときでも、「その気になればすごんでみせられる相手」だとか、そういうことです。危険性の低そうなチンピラ相手でも、うるさい犬相手でも、日頃から強面で相手ができない相手には、「その気」になってるときでも強面な「ふり」はできないってこと。
ほんで、「じゃあ程度問題かも」という話になったとして、今度は「長くやるから」とか「そればっかりやるから」とか、そういうことに原因を求めたくなるかもしれない。で、それは正しいかもしれないけど、正しくないかもしれない。
先に話題にした「健全なる精神は」の話を思い出してください。「どういうふうに取り組むか」が大事だって、スポーツや勉強のことだったら、同意できますよね。無条件にいいものだと思っていると「やらないよりまし」とか考えちゃうかもしれないけど、やり方によっては勉強だってスポーツだって、やらない方がましってこと、あるじゃないですか。オトナならいちいち説明しなくても知ってますよね? 仮にゲームであれスポーツであれ、人格形成とか犯罪傾向とかになにかの影響を与えるとして、それは「ゲームだから」とか「そればかりだったから」と考える理由はないはずなんです。これから新たに見つけない限りは、今のところ全然ない。まるっきりない。
■ぼくらの印象は「経験度合い」に大きく影響される
実は、なんかヒントかもしれないと思うんで、ちょっと印象論。
日頃、とてもおとなしく過ごしている人というのは、自分のちょっとした逸脱を、とても強く大きく記憶しませんか。たとえば、滅多に羽目をはずさない人は、羽目をはずしたときのことをよく覚えている。ボクは山登りとかスポーツとかが経験少ないですから、珍しくそういうことをしちゃうと細部まで覚えているし、印象深いです。楽しい思い出か苦い思い出かはともかく、強烈な印象として残ります。
ぼくが観察する側の例だと、たとえば、職場とも地域とも関係のない、つまり利害関係のほとんどない人の集まる宴会とか、経験のない人はとても印象に残るようです。「学生時代に戻ったみたい」とか言われたりします。ぼくにしてみれば、宴会ってそういうものの方が多いので、そんなことを言われるとかえって驚くのですが。
これって、いわゆる「すれていない」というやつですね。場数を踏むと、似たようないろいろなことのひとつになって、記憶もあいまいになるのだけど、少ないと区別というか印象も鮮明なわけ。
そうすると、日頃そっち方面の刺激が少ない生活を送っている人ほど「暴力的な映画を見た後の自分(や他人)」とかを、とても怖く覚えていたりしそうではありますよね。なにかに夢中になった後の虚脱感とか達成感とか、熱中している最中の視野狭窄とか、快感とか恐怖感とか、みーんな強烈なのではないかしら。これって経験値の少ない子どもと同じですよ。
ぼくは同人誌でも仕事でもバンドでも、そんなこと(みんなでがーっと集中して、ぽんと出来上がる)ばっかりやってるので「いつものこと」だったりします。病み付きだったりはするけど、ひとつひとつの記憶は鮮明にはならない。むしろ醒めてたりする。あんまり喜ばれたり驚かれたりして、びっくりすることになるのです。
どっちがいいとか悪いとかじゃなくて、そうやって印象と言うのは作られていくということです。
■ぼくらオトナは簡単にだまされる
ここでちょっと思い出話。
ぼくはコンピュータゲームには特に思い入れがありませんが、基本的にサブカル系に親和性が高かったので、やはり「いわれなき偏見」としか思えない物言いには何度もさらされました。一方で、そういう偏見の持ち主は、実に簡単にだまされるということもまざまざと見てきました。例えば「はきはきとしゃべって利発そう」とか「服装がちゃんとしている」とか「親の職業がちゃんとしている」とか。そういうことで、成績が中ぐらいのボクを秀才っぽくみなそうとするんです。
十代〜二十代前半のぼくは、実態としては「やわな不良」とでも言うような生き物でした。十代半ばで飲酒喫煙。無断外泊。ロック者でフォーク者で。高校のときには、実にしばしば学校をサボったし(東京の私立高校って、高3の3学期は授業がなかったりするのですが、出席日数が足りない不良どもと一緒に毎日通わされましたよ。「このままでは卒業できない」ってんで)。もちろん、ろくに勉強なんかしたことがありません。不良フラッグとは関係ないかもしれないけど、SF者でマンガ者でアニメ者で、同人誌だのミニコミ紙だの作るのに大学卒業しても入れ込んでたし。そうそう、大学では社会科学研究会なんてのに在籍して、デモや集会なんてものにも行ったことがあります。
不意に思い出したけど、高校生のときになりたかったものって「インテリやくざ」ですもん。
それでも、「はきはきとしゃべって利発そう」とか「服装がちゃんとしている」とか「親の職業がちゃんとしている」とか、そういうことで大半のオトナは安心するんです。これって、ものすごく表面的なことでしかないですよね。人の内奥まではなかなか見えないので仕方ないんですが、「いい」と考えるのも「悪い」と考えるのも、ものすごく表面的なことでしか判断できてなかったりするんですよ。
笑っちゃうのは、高校受験に失敗して浪人しても「実はバカだった」じゃなくて、「大学教授のお父様に反抗してるらしい」になっちゃう。無断外泊の常習者だということが露見しても、「オヤジはオレをほめたことがない」という一言で同情してくれたオトナもいました。ウソはついていないんだけど、さすがに気がとがめましたね、これは。
さらにおもしろいのは、基本的にはなんかひとつイカンと思うところを見つけると「危険人物」「不良」に分類するんですね。イカンかどうかは、その人によって違う場合もあります。屁理屈がオッケーかアウトかは人によりけりでした。飲酒喫煙もそうですね。
だいたい誰にとってもダメだったのは、学校をサボることと無断外泊でした。これは「我が子がそうだったら」とか思うと大事だったのかなあ。よくわかりませんが。
ある女の子の家では、学校をサボっていたことを知った途端に「亀尾くん(あ、ぼくの名字です)には会ってはいけません」でした。それまでは「亀尾くんなら安心」だったんですけど。まあ、裏切られた感もあったんでしょうね。すいませんね、おかあさま(^^;;
■バランスと経験値
で、いまのボクはというと「はきはきしてても、裏ではなに考えてるかわからない」「親の前でいい子でも、外ではわからない」「子どもは無意識に作話する」なんて思ってます。だって、自分がそうだったんだもん。
というわけで、子どもに対しては「お前らの少々の悪さは隠してもバレバレ。ウソも、だいたいわかる」という父親(のつもり)なのだ。で、細かいウソは、まあ気づいててもどうでもよかったりもする。ついつい自己防衛とか勢いで言っちゃったり、そういうもんだよな、なんて思っている。だからってわけでもないけど、うちのルールは最初から『誤摩化さない』だけ」だったりするのだけど(いや、誤摩化すものです、人間は。だからなんだけどね)。
しかし、これだって、自分の経験がベースになってるわけですよ。運動とか勉強とかに、思い切り取り組んだことはない、そういう体験がベースになってる。たぶん、ほとんどの人はそういう風に、体験の範囲でしか判断できないから、それとちょっと違う子どもや若者の行動に出くわすと、わけわかんなくなって「標準よりダメ」とか「標準よりいい」とか思っちゃう。だけど、それは実はなんかズレている可能性が高いわけです。
つまりですね、バランスがとれているっていうのは、「良いもんも悪いもんも、どっちも自分のなかにある」とか、「バカをやるときと、ちゃんとしているべきときとがある」とか、「夢中になったらなにも見えないのは当たり前。そういうときって失敗しやすいから、頭のどこかは冷やしておきたい。でも、それってなかなか困難」とか、そういうあれこれを自分がわかってるってことだと思うわけです。これはどう転んでも経験値を積むってことなので、決して「滅多にぶっちゃけない」とか「夢中になり過ぎない」とか、そういうことではない。「変なモノにはまったりしない」のがバランス感覚があるわけじゃなくて、「いろんなものに手を出して、ほかのことがないがしろになるぐらいにハマったり、そこから帰ってきたりする」という経験をすることこそが、バランス感覚を養うことなのじゃないだろうか。
いや、ぼくが理想的な人生を送ってきた、経験値満タンとか、そういうことではないです。むしろ経験値が足りないということを、日々思い知らされています。でも、そういう経験をしていないと、経験値の足りなさのせいもあって予測できることが少なくて、ものすごく心配症になるのだ(これはフィクションによる疑似体験で補える人とそうでない人がいるみたい)。うちのはカアチャン(穏やかな田舎で優等生をしてきちゃった人)みたいに(爆)
■ネットとゲームが悪者の座を降りるまでに必要な時間
おそらく、「逸脱を恐れる社会」と「失敗を恐れる社会」は、ひとつのモノのふたつの面なのでしょう。だから、そう簡単にはこうした傾向はなくならないかもしれません。いつまでも新しいモノは悪者で、ハマるヤツはダメなヤツで、ときには重宝がられることもあるけれども、誰にとっても当たり前の存在になるまではなんだか特別扱いが続くわけです。
いま携帯電話を持たないオトナは少数派になってしまいました。ですから、あと10年もせずに、携帯電話悪者論は目立たなくなるでしょう。80年代に浸透を始めたワープロ悪者論が2000年ごろには滅多に見かけなくなったように。テレビでバカになるという話が滅多に聞かれなくなったように。
ネットやコンピュータゲームは、携帯電話ほどの市民権を得ていないようです。同じ技術やロジックは、目に見えない形で社会にどんどん浸透しているけれども、見えにくいだけに、ネット悪者論やゲーム悪者論は今後もなかなか消えないかもしれません。バイクの三ない運動のように「ないものとして扱う」という定着のしかたをするかもしれません。
でも、かつて学校では無教養の象徴であり蛇蝎のごとくに言われたポピュラーミュージックが、いまは音楽の教科書に載っています。マンガが教科書や実用書に使われています。その間、およそ40年。そういえばお笑い芸人が国会に行くようになってからも、40年が経ちます(横山ノックの初当選が1968年)。
ファミリーコンピュータが登場したのが1983年。2023年までに、なにか別の悪者が登場していれば、ゲームやネットは悪役の座をようやく明け渡すことができるかもしれません。
しかし、それではあまりにもバカバカしい。そろそろ、そういう繰り返しからは解放されてもいい。そうは思いませんか?
少なくとも、メディアに載る記事を書いている人たち、「自分が知らないものはイイモノかワルイモノのどっちかだ」なんて、バカな理屈で記事を書いていませんか? その悪役は自分がよく知らないだけの相手だったりしませんか? あなたの違和感や警戒心の正体は、見知らぬものに対する恐怖心だったりしませんか?
無理矢理にわかったような答えを出そうとするのって、ぼくを「不良か秀才のどっちかに分けたかったお母さんたち」と同じですよ。それがプロのやり方ですか?
長いよ、おれ!
酔っぱらいは推敲が推敲になっていないことも発見 orz
apjさんの所で、ゲームの害悪を信じて疑わない方とのやり取りが展開されています(私は早々に離脱)が、一つの典型的なケースなんじゃないかな、と思います。
ご自分の発言がかなり侮蔑的である、という所に気付かないほどに、見えていないようです。
主張の根拠が岡田尊司氏の本で、しかも、議論相手がそれを未読だと勝手に前提するのはなあ。
おっと、こちらで書く事ではありませんね、すみません…。
apjさんのところ、ちょっと見てきました。あれもある種の「極端な相対論」なのかなあ。いや、相対化できなさ過ぎなのかな。なんだか論旨が濁っていてよくわかりませんが。
水俣病を例に出している辺りから察するに、「それ(ゲームの悪影響)を主張する十分な根拠は見つかっていない」という批判に対するに、「それ(ゲームの悪影響)を否定する十分な根拠は見つかっていないことを理由に、否定を躊躇するのはおかしい」と言ってるのかしら。「推定無罪って知ってますか」とか言ってもわからないんだろうな。
「なくてもいいもの」「研究の必要もない」とか言ってるようなので、単に「コンピュータゲームなんか嫌いだ。この世からなくなってしまえばいいのに」と考えているということなのでしょうね。要はビリーバーさんの一種か……「ゲーム悪者教」とでもいうのかしら。本人は合理的な反駁なつもりでいるようなので、なす術なしですね。