えーと、28日は、日中はmonoqlo編集部と打ち合わせ。夕刻からは学生時代からの朋輩と一緒に三省堂へ。
monoqlo編集部とは、九段下研リニューアルについて。基本的に亀さん六さんの掛け合いって形は残しつつ、月刊誌化に合わせて、こう「そのときどきの話題」ってのも意識しようや、みたいな感じで、うまくいけば同じページ数だけど盛りだくさんになるかも。
まあ、これから初回の組み立てを考えるので、乞うご期待ってなもんですが。
んで、三省堂では「香山リカ×菊池誠」を、くすくすと見てきたわけです。

雰囲気でいうと、多分『信じぬ者は救われぬ』の収録の雰囲気を再現したんじゃないかと思いましたね。
会場のパネルには、写真のように「だまされないための極意」とありました。事前告知ではこんなのなかったのにね。
言い出しっぺが編集部だか書店だかわかりませんが、「ああ、やっぱりそういうことを望むんだなあ。『そんなもんはない』というところから始まるのになあ」なんて思ったり。
もちろんトークでは、そんな「ズバリ言うわよ」はなくって、香山・菊池というまったく違う現場にいる人間がともに直面している異様な現実について、悩ましさ、とらえどころのなさ、もどかしさ、切実感が語られる……といったところであります。
香山さんが「曖昧さに対して不寛容な時代」というようなことを言いましたが、これはおそらく「わかりやさす」「二分論」なんてところと直接結びつく話ですよね。
こういう辺りになると、まさに「実感でしかない」「実証的な話ではない」んですよね。この問題の悩ましさでもあります。
質疑応答で「あとがき」の9.11について質問した(というか食い下がった)人がいました。これ、9.11を陰謀とみなすのが「健全な懐疑精神」と考えてしまう人の多さを物語っていたと、ぼくは見ましたね。いや、悩ましい。
あ、そうそう。同席した朋輩は「水戸の納豆園:そろそろ収穫期」のときもいたヤツ(今は営業部長かなんか。四十代半ば)なんですが、本もトークもおもしろかったと言ってましたね。ニセ科学問題には全然深入りしてない人です。帰りの電車ではFAQな話題がてんこもりだったぐらい。
ってことはさ、今はマニアックな話題だと思うのだけど、やっぱりふつうの人にとっても一定程度はおもしろい問題なんだよな、なんて考えたりもしたのであります。うん。
自分の体験では、「否定にも肯定にも偏らない公平な態度」の人と似た姿勢なのでしょうか。詳しくは(↓)
http://homepage2.nifty.com/k-tabe/terminat/origin_1.htm
「水からの伝言」における「反証実験」の人も、似たような論理なのかも知れませんね。
>質疑応答で「あとがき」の9.11について質問した(というか食い下がった)人がいました。
びっくりしたのが、その方が「(7号棟の崩壊は陰謀論以外では)ありえない!」と強く断言されていた事ですね。まさに確信に満ちていたというか……。
おそらく20歳〜30歳代の方と思われるのですけど、そのくらいの年代ならば、子どもの頃に、たとえば、丈夫な台の上に、長さの異なる細いゴム棒をいくつか立てて、台の端をバイブレーターで振動させてやると、他の棒はなんともないのに、ある棒だけがくねくねと激しく揺れる──といったような実験を、理科の授業で見た事があると思うんですよね(共振とか共鳴の単元で)。
もちろん、それが、7号棟の崩壊のメカニズムだと主張する気はさらさらないんですけど(だって、あの場で菊池さんが繰り返し主張してたように、それはまだ誰も知らない事なわけだし)。でも、「陰謀に関わったすべての人が口裏を合わせている」事よりも、「まだ解明されていないだけで、既存の物理法則で説明できる」事のほうが「絶対にありえない」と確信できるというのに、ため息が漏れました。
──確かに、自分が知っている事・経験した事だけで説明しよう・納得しようとしたら、陰謀論が一番説得力があるのかも知れないなぁ……とか、思わなくもないわけですが。
またまた、apjさんのブログのコメント欄からの引用なのですけど……。
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=4411
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すでに稲氏が紹介していますが、『これからの理科教育(日本理科教育学会編・東洋館出版社)』からの引用(↓)
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/events/JPSsymposium0306/tasaki.pdf
の5,6ページ目をご覧下さい。「冷たいコップの外側につく水滴は、水蒸気が結露したものだと科学者はいうが、コップの中の水がしみ出してるとも言えるよね」といった言説さえ、「観測事実を根拠にした論理的な推論=科学的事実」として評価しなければならないのです。それを反証できるような厳しい追及を普通の人はしようがないし、そもそも、反証してみよう(自分が論理的に導いた「正しい」結論を、わざわざもう一度懐疑的・批判的に検討し直してみよう)などという動機が、この科学観にはないからです(あるのかも知れないが、少なくとも、この科学観に則った教育でそういう動機を生じさせるのは困難でしょう)。
【at 2007/03/15 21:17:11】
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そこまでして、子供に万能感(速水敏彦氏の言う「仮想的有能感」?)を与えたいんですかね。「君の考えはこの点で間違っている」とか「君の観察はこの点を見落としている」とか、教え子を否定するような事を言えない(言うと嫌われるから?)子供におもねるだけの大人たち──という印象を、どうしても受けてしまうんだよなぁ……。
でも、教育現場では、先生は子供に嫌われず、子供は絶対に否定されず、みんな嬉しい、だから素晴らしい──という感じで広まっていってるように思うのは、さすがにひねくれすぎですね(苦笑)。
(中略)
そういう事をせずに、「冷たいコップの外側につく水滴は、コップの中の水がしみ出してる」と言い出しても、「水面の高さまでしか水滴が現れないね」「ビンを傾けると新たに水滴が現れるね」という「観測事実から導かれる論理的な推論」と評価するだけ(おそらく、「論理的な推論をする能力」を伸ばすのだけが重要で、「正しい自然観」を身につけさせる事はどうでも良いのだろう)──というような理科教育では、そりゃぁ、ニセ科学に騙される感受性ばかりが鍛えられるよな……と思わざるを得ないですよね。
本人は「自分は“事実”に基づいて、ちゃんと論理的な思考・判断ができる」と自負するようになるのは間違いないだけ、単なる無知よりもタチが悪い気がします。
【at 2007/03/16 23:59:16】
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>ってことはさ、今はマニアックな話題だと思うのだけど、やっぱりふつうの人にとっても一定程度はおもしろい問題なんだよな、なんて考えたりもしたのであります。うん。
それは間違いないと思うんですよ。「と学会」だって、ある程度おもしろがって受け入れられたわけですし。むしろ、社会科学系の人や、人文学系の人や、心理学系の人や、教育学系の人や、なによりも、ジャーナリズムの人が食いつかないというのが、とっても不思議なのです。
──それにしても、「Science for All American翻訳翻訳プロジェクト」のほうをやらなきゃいけないのに、俺は一体ナニしてんだ……。
反応がどんくさくてすいません。
当日、おいでだったんですか? うーむ、どの方だったのだろう……。
で、ご指摘の点に関連して、「ほたるいかの書きつけ」さんの下記エントリや、リンク先の北村正直氏の文章を読んで、あれこれと思いをめぐらせています。
嫌われる相対主義(ほたるいかの書きつけ 2008-03-16)
http://ameblo.jp/fireflysquid/entry-10080007260.html
北村氏は「生活科」成立の背景にも構成主義の流行があったと考えているようです。さもありなんとも思います。
で、昨日は村上陽一郎『文明のなかの科学』(青土社 1994年)なんかを借り出してきました。なんか相対主義(擁護論者)を理解するためのヒントになりそうな気がしています。