2008年04月11日

【種】「根拠を示す」の意味を勘違いしている人っているよね

全国学力調査、学校ごとに公開中(Slshdot Japan 2008年04月11日)

上記でのコメントの応酬を見た。
ささいな、ありがちな行き違いに過ぎない。「根拠を示す」というのが、なんのためにどうすることなのかがわかっていないらしい人がいた、というに過ぎない。しかし、マスメディアにおいても同様の勘違いが多いと思われる。そこで、あえてエントリにする(実はあっちにコメントしようかとも思ったのだが、仕組みがよくわからんくて、ここに投下することにした)。

まず発端のコメントA(#1328122)はソースについてなにも言及せずに、あたかも結論は自明であるかのごとくに意見を述べた。
それに対するコメントB(#1328139)は「本当?それ本当?」と真偽を疑うコメントとともに、自分の意見を書く。その際に、自分の感覚や個人的な体験に基づく意見であることを明示した。
コメントBに対してコメントC(#1328179)は「意地悪なレスポンス」「無視された方がよいと思」うとして、次のような評価を示す。
これ反論になっていませんよね。「ただ自分がそう思う」以外何の情報もない。
Cは引き続き、コメントAの内容を支持する研究成果をソースとして示している。

さて、コメントBは無視されてしかるべきものなのか? それはなぜか? ちょっと考えてみてほしい。


以下にぼくの意見を述べる。

コメントBにはAよりも明らかに優れている点がある。自分が書いていることが周知の知見なのか、私見なのか、なんに基づく意見なのかを明らかにしている点である。それによって読者はコメントBについて評価することが可能になる。
コメントAは評価不能だ。よいも悪いもわからない。海のものとも山のものともつかない。どこの馬の骨かもわからない。コメントBには、このことを浮き彫りにする効果もある。
コメントBは、いわば「この意見は、そこら辺の馬の骨レベルです」と名乗っているのだ。内容が妥当かどうかは別にして、合理的な根拠に基づく考察というには十分ではないということを自ら明らかにしている。コメントBは、その点でコメントAよりもずっと優れている。

その論が正しいかどうかは、根拠や推論の筋道を示された後に初めて検討可能になる。Bの指摘は、その意味で正しい。持論の述べ方も、最低限必要な水準をきちんとクリアしている。

結論の部分においてはコメントAが正しく、コメントBが誤っているかもしれない。それでもコメントBが優れていると言っているのだ。つまり、これは結論の正誤を検討しているのではない。結論の妥当性を検討するために必要最低限の材料を提供しているかどうかを検討しているのだ。
コメントCは、Bの「根拠を示してほしい」という指摘の意味を理解できていないのだろう。「Aの論の妥当性は、材料不足で検討できない。だから意見のよりよい表明方法を考えてほしい」というBの指摘に対して、Cは「意見の表明方法について指摘するのは意地悪で、無視すべきだ。なぜなら、その論はこの研究で裏付けられている」と答えたことになってしまう。

Cは、たまたまAの結論を支持する研究結果を知っていたためにバイアスが生じたのかもしれない。しかし、このような立場に立ってしまうと、ひとつ間違えると「正しい結論が導かれていれば、途中の検討はどうでもいい」ということになりかねない。それでは根拠として示されるものが合理的検討の結果である必要さえなくなってしまう。

信頼性の高い根拠を示すことだけが有用なのではなく、信頼性の低い根拠に基づいた意見の場合に、その信頼性の低さを自分から明らかにすることも極めて有用かつ重要であり、それこそが誠実な議論に求められるものなのだ。これは忘れたくない。

最低限必要な水準をクリアしただけで結論が順当とは言えないのであれば、本来は「優れている」とは言えない。自分の感覚を根拠にしているという点では評価は低くてもおかしくない。せいぜい「意見の述べ方としては行き届いている」というぐらいの評価が順当だろう。
しかし、ABの比較として考えると、事情が違う。彼我の差はかなり大きく、決定的とさえ言える。そこで前述のように「コメントBは、その点でコメントAよりもずっと優れている」と評価したい。

Slashdotのモデレータ(なのかな? 「参考になる」とか「すばらしい洞察」とかの評価をする中の人)は、上記の違いをよくわかっているように思われる。
コメントBが「スコア:2 すばらしい洞察」と評価されているのに、コメントCは同じ「スコア:2」でありながら「参考になる」としか評価されていない(ソースが参考になるという意味だろうと察せられる)。もちろん大元のコメントAは、「スコア:0」で評価はない。
妥当な評価だと思う。

以下は印象に基づく危惧。
Cの態度は、世間に広まっている「性急に正解を求める態度」や「間違ったことを言ってはいけない」とする風潮にも通じるものではないか。また、「荒れる」とか「言い争う」ことと「議論する」「検討する」ことの区別がついていない人が少なくないことにも通じるかもしれない。
ニセ科学やオカルトなどに関する議論は、多くの場面で「それは、あやふやな根拠に基づく(あるいは根拠を示し得ない)主張ではないか」「それにも関わらず『正しい』『ある』と強弁しているのではないか」といった検討を含むことになる。これを「魔女狩り」であるとか「決めつけ」「レッテル貼り」と呼んで敬遠し批判する方々もいる。そこには上記と共通するなにかがある場合も、少なくないのかもしれない。


posted by 亀@渋研X at 20:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学対策教材の種 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 【種】「根拠を示す」の意味を勘違いしている人っているよね
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