「生存の不安」じゃなくて「実存の不安」だってのは、別に新しい指摘ではないけれども、まさにそうなんでしょうねえとは思える。
で、標題の「名前の格差」。
斉藤環氏の言う「システムの中で、自分だけの固有の名前を持つことができる人と、匿名のまま名前を持つことができない人の格差」というのはわかるような気がする。しかし、「目的として扱われる人と、手段としてしか扱われない人の格差」と言い換えられると、途端になんだかわからなくなる。
特に後者「手段としてしか扱われない人」って、どういうことだろう。以下、それでぐだぐだと考えたこと。
たとえば、「読者」「消費者」「労働力」「生徒」なんていう立場の一人(集合の一部)としてしか扱われない、ということなんだろうか。手段というには似つかわしくないものも入っちゃうけど。
まあでも、もしもそうなんだとすると、自分の身近な世間(家庭や学校、職場、地域、交遊範囲など)においても匿名で、立場というか属性でしか語られないってこと?
ううむ、もしもそうなんだとすると、こりゃあ恐ろしい「匿名性」だなあ。
で、2つの事件の共通点として「自暴自棄」が挙げられている。それには同意できるのだけど、これって学校の先生方が大好きな「自己肯定感、自己有用感が育っていないからだ」なんていう話にも、まったく逆の「肥大した自己肯定感が世間に受け入れられずに傷ついたからだ」とかいう話にもマッチしそうに見える。
だとすると、自己肯定感とか自己有用感って、なんなんだ。
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こっから飛躍。
70年代ぐらいからだろうか、「個性の時代」なんてことが言われたのは。金子みすゞの「みんな違ってみんないい」が小学校で教材に採り上げられたのは、いつ頃からだろう。SMAPの「世界にひとつだけの花」だっけ、ああいう曲がヒットする下地は、ずーっとあったわけだよね。そういえばあの歌は、学校の先生にもファンが多いみたいだなあ。
さて、そうした「個の尊重」「差異の受容」の辿り着く先が、こういう風景(名前の格差)だということなんだろうか? それとも、「個の尊重」「差異の受容」が言われ続けて来たにも関わらず、こんな様相を呈してしまっているってことなのだろうか。
先にも触れた自己肯定感だのself-esteemだの自尊感情だのというものとの関係が(有益無益のどっち側への関係であれ、なんかしら)、ありやしないかという気にもなろうってもんだ。
なんとなくだけど、ぼくらってのは毎度毎度、なにかを考えるときに二項対立にしちゃって、振り子を振り切っちゃうことが多い(詰め込みかゆとりか、とかね)。「ちょうどいい落としどころ」を見つけられずにいるんじゃなくて、どっちかに行きたがる。そういうことが問題につながってやしないか、そうだとすると、「個の尊重」「差異の受容」を肯定しすぎたり否定しすぎたりってこともあるのだろう、なんてことも思う。
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というようなことを踏まえて「個の尊重」とか「自己肯定」だとかに関する作文をしてみる。
ひとりひとりが、それぞれに個体差をもっている。また、個々の人が異なる行動方針をもっていることもある。それは責められる筋合いのものではない。
しかし、たとえば消費できるリソースが少ないときやリスクの大きいときには、他と同じであることを受け入れないと、集団を存続の危険にさらすことがある。その場合、他と同じであることを強要され、受け入れないと批判されたり処罰されたりすることがある。合意しようがしまいが。
これは当たり前だけれども「どんなときにも他と同じであること」を強要される必然があるという話ではない。ケース・バイ・ケースだってことだよね。影響の大きさや質などの「文脈」に依存すると言ってもいい。
「基本的に個性が尊重される」「一定の自己肯定感が必要」ということと、「常に個性が尊重される」「常に自己肯定感や有用感が与えられる」ということにも、上記と似たような違いがあるんじゃなかろうか。
自分は自分で、いまのままでもオッケーで、それどころか「誰にとってもかけがえのないもの」であるはずなのに、同時にその自分が(自分の周りの)世間にとっては無価値で、いてもいなくてもいい存在だとしか思えなかったら、混乱もすれば自暴自棄にもなるかもしれない。「誰にとってもかけがえのないもの」なのだと信じ続けることさえできれば傷つかず、自暴自棄にならずに済むのかというと……どうも疑わしいような気がする。
でも、傷ついても耐えられるためには、仮に「ダメな自分」だったとしてもそれを受け入れるという覚悟は下地として必要だろう。そのとき、いつかダメでなくなる(いつかオレはバージョンアップするもんね)ということを自分自身が信じられるためには、自分自身が努力することや諦めないことを受け入れるしかないのかもしれない。だって、「そんなことを言ったって、お前は自分が変わるためになにもしていないではないか」というツッコミは、自分が自省してさえも思いついてしまうから。
同時に、「いくら頑張っても、変わらなかったじゃないか」というツッコミもあるだろう。だから、やはり誰かしら他者が価値を認めてくれる必要があるのだろうなあ。親だの恋人だの友人だのという、一部分の価値であれ、無条件に肯定してくれる他者、自分を必要としてくれる(というか、失うのを嫌がってくれる)他者が。
このとき、「無条件に肯定してくれる他者や、自分を必要としてくれる他者がいる」ということで、だから安心して再び努力ができるのではなく、だからこのままでよいのだ……となってしまうと、価値を認めてくれない他者との衝突に耐えられないことになるのかな。
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少しシフトしてみる。
無価値な命など存在しない。ただ、それは「生きている意味なんかない」とまで言われるほどに軽い命はないということでしかない。
そして多くの場合、誰もが誰かにとってはかけがえのない存在だ。誰かが大切にしているものを奪う権利は、誰にもない(いや、誰も大切にしていないものだったとしても、そんなことをする権利はないのかもしれない。誰も異議を唱えないだけで)。
ここでいう「かけがえのない存在」は「誰にでも適用可能な絶対的な価値」ということではない。誰もがむやみに重い価値があるなどということではなく、むしろ、誰かにとっての価値が他の人にとってどうなのかは測りようがない、比較不能だということだ(価値などというモノサシが不適切だということかもしれない)。
ある1000人の集団にとっては、リーダーひとりの方が構成員100人よりも価値があるかもしれない。判断するのがリーダーなのであれば「そんなことはない」と否定できるかもしれないが、個々の構成員がそれを否定するためには、たとえばリーダーや他の構成員の合意を必要とする。
この構造は、おそらく、民主主義だろうが社会主義だろうが封建主義だろうがなんだろうが、同じではないだろうか。
だからといって決定権を持たない構成員が無価値なわけではない。そもそも構成員のいない集団なんて存在し得ない(ただ、これは代替可能だ。「手段としての存在」でしかないってことかな?)。
天涯孤独で、友人も恋人もいなかったら? 仕事もなくて、なんにもすることがなかったら? これは厳しいよねえ。いやまあ、そうじゃなくても、時代によっては間引きだってあるし、運が悪いと現代でも交換可能だとか、それどころか親に殺されちゃうとか、そういうことも一定の確率であるんだけどね。いまどきの一般には珍しいんでないかい。まさに「不運とか不幸とは、そういうことを言うのだ」ってぐらいかもしれない。
もしもそう考えることができるなら、死んだ親父やお袋にとって、誰かと交換可能な存在だったはずはない、と信じることができる境遇であってほしい。できることなら、いま生きている誰かに「生きていてほしい」「あんたに遭えてよかった」と思ってもらえるような経験のひとつももって欲しい。
その記憶だけで、自暴自棄にならずに生きていけるのかもしれないから。
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も少しシフト。
誰もが誰かにとっては「吹けば飛ぶような存在」だ。山のように誤りも犯す。全面的に肯定されることなんか、ほとんどない。だけど、だからといって全面的に否定されるいわれはない。
出会う人のすべてが「お前のやっていることはおかしい」と言ったとしても、それどころか誰も自分を気に留めてくれなくても、それは別に死んだ方がいいとか、生きている意味がないということではない。別の話だ。
誰かが、ちょっとは「あんたのやっていることはおもしろい」とか「いてくれてうれしい」とか思っていてくれている可能性が、少しはある。そして、その人にそう感じさせるものがほかにあっても、感じさせたものそのものではない。そういう意味では互換不能、余人をもって代え難いものと言えないこともない。
「無意味な命なんかない」とか「誰もが誰かにとってはかけがえのない存在だ」とかいうのは、基本的にはそういうことだろう。
ぼくらを支えてくれるのは、最後にはそういう思いだけなのかもしれない。
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読み返してみると、差が小さすぎるような気も、実際に全然シフトされていないような気もする(-_-)
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