●雨の中を走りまわった夜(ティギ ティギ 2008-04-18)
●今日は泣いたぜ、ちょびっとだけど(S嬢 はてな 2008-04-18)
同じ日か1日違いか。きっと、世間では同じようなタイミングで同じような体験をしている人って、たくさんいるのかもしれない。
中学時代に、数日ばかり無断で家に帰らなかったことがあるぼくと違って、うちの子はごく短時間の、狭い範囲での迷子ぐらいしか経験がない。ぼくも家族も、
たとえば子どもがいなければ、こんな体験はしないのか。どうもそんなことでもないような気がする。
「問題と無縁な者」なんていない、あるのは「問題の強弱」や「問題との距離」といった程度の違いだけだ。そんなふうに。
関連して、最近読んだ下記の記事を思い出した。
●定型発達者の会話では気遣いや感情が他のものに優先する(アスペルガーライフblog 2008年01月02日)
さっき「定型発達者」でググったら、下記を見つけた。同じ人の書いたものかな。
●自閉症者にとって定型発達者はわかりにくい(アスペルガーライフ)
定型発達者とは聞き慣れない言葉だが、いわゆる「健常者」のことだそうだ(どの程度ポピュラーな語彙なのかは知らない。高岡健『自閉症論の原点』のページによると、芹沢俊介(あの!)は書評で
この本のなかで著者は、自閉症スペクトラムを有する人と定型発達者という分け方をしている。定型発達者とは健常者と一般に呼ばれている人たち、要するに私たちのことである。と書いている。
アスペルガー症候群あるいは自閉症と自分の違いは、世間で思われているよりははるかに小さい、などと考える(その意味では、上記エントリについたはてブも興味深い)。「モヒカン族」ってのはアスペルガーっぽいということでもあるなあ、なんてことも。
●モヒカン族 (はてなダイアリー > キーワード)
いろんなものは(ひょっとすると、すべてのものは)、なだらかにつながっている。グラデーションというかグレースケールというか、そんな連続階調のなかのどっかに、不確かに(とりあえず今は)位置しているだけで、しかも「ここに位置している」という知覚は、時間や経験で容易に動くんだ、なんて考える。
「あれ」とか言ってないで具体的に名前をつけると、ものごとは考えやすくなる。でも、名前をつけたことで何かが変わるわけではない。同じように「ここに位置している」と見極めたことで何かが変わるわけではない。それなのに、名前を付けたり位置を見極めた気になることで、ぼくらの行動や考えは左右される。
「世界は常にとても不確かで、いつでも容易に変わる」
「変えるのは自分の『考え方』や『行動』のこともあれば、他者のそれのこともある」
「多くの場合、それは小さな変化でしかないが、当事者にとっては決定的な変化でもあり得る」
ひさかたぶりに、なるほどと眼から鱗が落ちた気分です。いろんなことに思い当たります。
障碍のなかには「他者との関係」で語られるものも多いですね。そういうものは、ほんとに「近い」なあと思います。
また、上では書いていないけれども「老い」なんてことを考えると、ほかにもいろんなものが「近い」というか、誰にとっても無縁じゃないんだなあ、なんてことも。
う。本文で「障害」と書いちゃってるな。IMが初期化されちゃったからだな。いかんいかん。直そう。
上記を修正していて思い出したのですが「幸運」と表現してしまうことにも、引っかかりがあるのです。「そういう体験をしないということは、本当にラッキーなのか、運がいいのか」って。当事者にとっての問題の大きさや大変さを考えると、体験しておく方がいいなんて気軽には言えないですよね。慰めにもならない。
「今、たまたま当事者でないだけ」ということに、どれだけの意味があるのか、当事者から見ると、それは「幸福」とかではなくて、まさに幸「運」であるに過ぎないんじゃないか。その意味では、違和感がないかな、ということで幸運にしたのですが。
「ささやかな幸運」とかいう表現も考えたのだけれども、どんな意味でもイヤラシいですよねえ……。
むー、単に「偶然」とすべきだったか。
で、下記、いずれも今日の記事。
http://slashdot.jp/askslashdot/article.pl?sid=08/04/19/110227
http://d.hatena.ne.jp/filinion/20080419/1208607007
昨日今日ってなんかそういう日とかいうわけでもないよね。これも時代の変化ではある。よい変化……だろう。