話題にしていたのは、トンデモブラウさん。
(略)
『靖国』上映問題を「表現の自由問題」だけに限定して上映すべきだとするなら、『あるある』や『オーラ』なんかの「演出」もOKということになりませんか?
(略)
オッケーなわけではないのだけど、じゃあ禁止するようなことなのか。これ、頭が痛い問題ですよね。
最もラジカルというか「言論の自由」を最大限に尊重する立場では、どのような無茶苦茶な内容でも、それをなんらかの媒体で発表する自由はある、と考えるようです。おそらく代表的なのは、ヴォルテールが言ったとかなんとかいうことになっている「あんたの意見は承服できんけど、あんたがその意見を言う権利を、オレは命に代えても守るもんね」といったような話だと思います(原文やらなんやらがwikipedia:ヴォルテールに出てます)。
じゃあ、ダメダメな放送でも「やっていい」ということなのかというと、内容や表現方法によっては批判されるし、他者の権利を損なう場合は例外として法的に責任を問われることもある。そういう圧力によって制限される、ということになるのだろうと思います。
こうした考え方が世間に広く支持されているとは言えないかもしれないし、ぼくだってヴォルテールのように命がけにはなれませんが、自由を保障するということと、だからやってもいいということは直結しない考え方もあるということですよね。
全面的にそれでいいのかと言われると迷いはあるし、まだるっこしいような気もします。しかし、法で規制しようとかいう話よりはうなづける、というのがぼくの立場です。差別表現の言い換えとかも、一定の意味はあると思いつつも本来は文脈や意図に依存するはずだし、闇雲に規制するのは(自主規制であっても)形式的なものになって逆に問題が隠蔽されるよなあ、なんてことを以前から考えているためもあります。
また、自分自身メディア上で「誤りを犯す」危険が常にあるんだという意識があるためもあると思います。
似て非なる話なんですが、表現の自由つながりでwikipedia:対抗言論を読んだんですよ。その「詳細」ってところを読んで、比較的に問題を理解しやすい名誉毀損でさえもメディアによって対処が変わらざるを得ないというような主張(高橋和之)を知りまして。「やっぱり規制にはなじまないよなあ」と思わざるを得ない。
もちろん「不適切な主張はすべきではない」わけだけど、規制としてはごく大枠に留めて、メディアの側が不断に学習しなければならないという状況を作る、その状況を維持するという方向のほうが望ましいのではないかなあ。そのためにも、BPOみたいなところにちゃんと機能してもらわなければならなくて(あ、さんま教授の件もBPOにたれ込むべきだった)、また批判することもされることも覚悟しなきゃならないんだけど。
タグ:メディア
法的規制というのは、相手の知性や倫理観と言うものを期待していないと思うのですよ。大人が子供の面倒を見るというか、パターナリズムというか、自立した存在として認めていないから力のある存在が裁いてくれるわけでしょう。
しかし、批判というのは相手の知性に期待しているわけでしょう。『オーラ』なんかを放送して良いと本気で思っているのか?そんなことをTV 局は主張したいのか?と問いただしているわけですよね。
(ここから、元記事のテーマから少し脱線しますが)
ところが腹立たしいことにTV局は決して正しい主張だとは言いませんね。あくまで、いろんな意見をわけ隔てなく紹介しているだけだと逃げを打ちます。あるいは、バラエティなんだから、目クジラ立てなくてもとごまかすというか、まともに取り合おうとしない。
むしろ、本気で信じているビリーバーの方が扱いやすいのじゃないかと。その主張のおかしさを他者の目にははっきりさせることができるからです。しかし、TV 局は信じてもいないことを利用しているだけだからタチが悪い。
>批判というのは相手の知性に期待しているわけでしょう
うーむ。そうとも言い切れないような……。
告白しちゃうと、ぼくには法律についてバイアスがあるのかもしれません。
多分、ぼくは「法というのは倫理や道徳律の最低限の部分しか実現できない」というような、一般教養の法学の講義で、最初の時間あたりに習ったことが、いまだに強く印象に残っているのだと思います。自分の知見というよりも、「大前提として刷り込まれてしまっている」ような感じで。
そのためか、まずは「不適切だから禁じるべきこと」と「不適切だけど、市民相互のやりとりのなかで是正されていくのがちょうど良いこと」というのを、区別したいという気持ちが働きます。これは第三者の権利を阻害しないものは罪としても軽いとか、そういうことでもないです。罪の軽重や影響の大小「だけ」じゃなくて、言論というのは、かなり広い範囲まで「法の規制になじまない」と考えてしまうわけです。
ちょっと簡潔に書けそうもないので改めてエントリにでもするかもしれませんが、「いい加減な媒体は相手にされない」「ダメなものは淘汰される」という方向が理想だろうと考えています。成熟した市民社会みたいなものを指向するかどうか、という意味ではzororiさんのおっしゃる「相手の知性に期待」ではありますが、これは受け手の成熟が鍵なんですよね。しかも、仮にその底上げができても、メディアを作る人間にも一定程度はダメなやつは入ってくるので(金があれば出版社もテレビ局も買えちゃうわけで)、それではダメだとしてしまうと、もう法規制しかないってなっちゃうかもしれない。
でも、それは最後の手段だろう、まだそこまでひどくないというよりも、そこまでやったらもう取り返しがつかない、という感覚もある。
現状の放送局(特にキー局)がでかすぎて、簡単には淘汰されないのも問題なのかもしれない。番組は淘汰されるんですけどね。もっと大小入り乱れて出版社みたいな状況になると、「放送局も玉石混淆だって、大人なら誰でもわかってるよね?」という話も通りやすいのかなあ。いや、それでも「誰もがそう思う」ってことにはならないのはわかってますが。
おそらく法規制は直接的な損害被害を及ぼす行為に限定されるということではないかと思います。非常に大きな影響を及ぼすものでも、間接的なものは原則として規制するとまずいと思うのですね。例えば危険思想を流布する行為などです。また、予防的な規制も問題ありと思います。なぜなら、このような規制はいくらでも拡大解釈が可能になってしまうからです。この種の問題は市民相互のやりとりで是正していくしかないのではないかと思うわけです。その場合、裁判官や法律は存在せず、市民自身に判断できる知性が必要になりますので、相手の知性に期待と表現しました。もっとも直接の批判相手の程度が低すぎる場合は期待できないわけですが、その場合でも第三者の市民に訴えるわけでそれが市民相互のやりとりと言うことでしょう。少なくとも市民にはやりとりするだけの知性は必要となります。法規制の場合はその知性は明文化された法律になっているので、第三者の市民がいなくても、知性の無い相手でも裁けるわけです。
以上の話も雑な議論に変わりはなくて、現実には間接的予防的法規制は存在します。わいせつ物、凶器準備集合、暴力団規制関係などです。でもこれらは相当の議論を呼びますね。非常に危うい法規制だと皆さん感じているからでしょう。
言論の法規制というのは、まさに間接的予防的規制ですよね。例外として名誉既存や侮辱がありますが。
なんいてうか、今の日本では「社会的制裁」という事の意味が忘れられている気がする訳ですね。例えば小さな蕎麦屋が衛生管理をしくじって食中毒を出してしまったとしますね。保健所の指導なんて法的制裁はそんなに厳しくなくとも、その後、それまで昼飯を食いに寄っていた客が、「なんとなく怖いな」と寄りつかなく成ったりします。仲間同士で昼飯を誘い合う時にも「あそこはどうだ」「よそうぜ腹壊してもつまらん」なんて会話が成り立つかもしれませんね。かくして、誰かが強権で「つぶせ」と命じた訳でも無いのに、半年後にはその店は無くなっているわけです。でもね、その店が、金持ちの爺さんが道楽でやっている店なら潰れないし、やがては客が食中毒の事を忘れて戻ってくるかも知れませんね。
言論の自由にも似たような面があると思うんですね。「売れる本を出したい」と「嘘の話をさも真実であるかのように並べた本」というのは、最初は売れるかもしれないけど、やがて、「あの出版社(作者)の本は嘘ばっかしだ」と言われる様になれば、「わざわざ金を払って馬鹿な嘘を読んでも仕方なかろう」と買わないとか「お前、こんな嘘本読んでいると馬鹿になるぞ」という事も起こって、その出版社なり作者がやがて消えていく事もあるでしょう。でもそれは、誰かが強権をふるって潰したり書くのを止めさせた訳ではないんですね。「とにかく少しでも真実を知って欲しい」とボランティアの寄付頼みで出版し、小さな出版社が懸命に後押しした本が少しずつブレークする事もあるわけです。
或る意味で「売らんかな」の世界は社会的制裁が働きやすく、「売れようが売れまいが、自分の意志を通す」という世界では社会的制裁はあまり大きな力を持たないものなんですね。
そういう意味で、「表現の自由」という部分ではあくまで「社会的制裁」の流れで物事が動くのが理想的なんです。
ぼくが考える「淘汰」というのは、まさに技術開発者さんのいう「社会的制裁」のことですね。
こういうとき、一定数は頓着しない人が出てくることはあるわけですし、それがまた被害を生んだりもするんだけど、で、それを「あれだけ有名なのに、引っかかる方が間抜けだ」とか「自己責任だから云々」なんて、放っておけばいいんだみたいに言う人もいるわけですよね。
出版社なんて気にしないで本を買う人もいくらでもいるわけだし。
だからもどかしい気持ちはぼくにもあります。
そして、それでも「法規制にはなじまない」と言い続けるためには、「どういうものが当てにならない(ことがある)のか」という話を、おそらくし続けなければならないんですよね。
ところで、昨夜「さんま 水の結晶」とかでググってみて気づきました。
ヒットしちゃうんですよ、「さんまーク出版」が(-_-)
憲法上「自由」という場合は、基本的に「国家からの自由」の意です。かつてABO-FAN氏が言ってた通り(非常に自説に都合よい用い方ではありましたが)、原則として憲法は「国vs民」の関係において、国家を律するために存在するのは間違いないんです。
勿論、私人間効力(憲法の間接適用)のような例外もあるんですが。
ですから、当然ながら『あるある』や『オーラ』なども、「表現の自由」という観点からは認めざるを得ないんです。「国家からの規制からは自由であるべき」、というか、「国家から表現を制約されるべきではない」というのが大原則(刑法他の法規に抵触する場合や民事の場合はまた別)。
だからこそ、kikulogで「政治家(国家)に権力を与えてメディアを規制させなければ」てなこと言う人には少々キレたわけですが。
しかし、当然ながらあんな非科学的な番組放置しておけば、社会上害悪にしか繋がらないわけで。しかし、国家に制限させるのはリスクが巨大すぎる。だから、「表現の自由」をいいことに非科学的・非合理的な言説を流し、自ら「表現の自由」を貶めるメディアに対しては、国民が自分自身の手で、真っ当な「表現の自由」を守るために「社会的制裁」を加え、規制(淘汰)していかなければならない、という論理構成になります。