ラッセンとは何の恥部だったのか(Ohnoblog 2 2008-04-21)
怪しい壺を売るのと同じ手口の派手なおねーちゃんに言い寄られ、あれこれ能書きをまくしたてられ、「きっと凄いものなんだ」と信じ込んで(あるいは半信半疑で)大枚はたいたのである。大枚はたいて何か「凄いもの」買った気分、得した気分になった。
「上品ぶってたって売れんわい」という売り手スタンスも、購買スタイルも、ヤンキーのものだ。
「きっと凄いものなんだ」を逆説的に支えてくれるのが、ラッセンの絵の"わかりやすさ"である。水族館の看板くらいわかりやすい。妙にケバケバしい配色やファンタジックな絵ヅラは、ヤンキーの車のペインティングとよく似ている。そっくりの図柄をペイントしているシャコタンを見たこともある。
新興宗教臭さを感じさせる「極彩色で「人間も動物も争わず、共存して」みたいな、ライオンと人間とシマウマが仲良く草原にみたいな」"スピリチュアル"な雰囲気も、安いヒューマニズムにコロリとやられがちなナイーブなヤンキー心を捉えそうだ。ラッセンの絵は日本的な癒しや郷愁とはかけ離れているかもしれないが、日本人に一番多い((c)ナンシー関)とされるヤンキーの趣味には意外にも合致。むしろヤンキーにとっての癒しがラッセンに凝縮されている、と言ってもいいくらいの感じだ。
なんだか、スピリチュアルとか水伝とかと、かなり似通った話だったのか。
そういえば、購買層というかファン層というか、そういうのも似てたりするのだろうか。
ううむ。わからん。
なんとなく、深町秋生さんの云う「16号線ハードコア」を連想したぼくもちょっと極端ですね。
「16号線ハードコア」、ググって読みました(一青 窈のPVの件の人だった。ううむ)。16号線って、うちの近所ってば近所なんですね。そうか。ヤンキーというよりも、ある種の貧困の問題なのか。底辺社会とかそういう話なのか。面影ラッキホールなのか。
と、低所得者向け公営団地(DQNだのの巣窟とも言われる)に住んでいるボクも思いました。そうか、極端なのか。
ただし、絵を買って飾ろうなどというアートとしての受け入れ方ではありませんでした。私が、ラッセンの絵を売っているのを見て思ったのは「1冊150円くらいのB5ノートの表紙でこういうのがあったら買ってもいいかな」でした。つまり、私が欲しくなる、いわゆるキャラクターものの安価な文具のデザインにマッチしていたんです。ちょっと見キレイな絵や写真の表紙のノートが好きで、新しいのが出るとよく買っていました。
今になって思えば、「楽しくて賑やかな包装紙の柄」として受け入れていたんだなあ、と。
なるほど。
実は、改めてググってラッセンの絵を見てみて、「うーん、雑誌の扉イラストにできんとは言わんが、大枚を払う気にはなれん」「特集ページも無理」などと思ったのです。しかし、セイカとかコクヨとかの学習ノートの表紙だったら、ありですね。そこそこ正確みたいだし。
あ、なんか似て非なる話になってしまった。
しかし、あのタイトルって、なんだかヒーリングとかスピリチュアルとかいう人たちと語彙が、けっこうかぶっていませんか。
http://www.oida-art.com/buy/artistwork/170_1.html
アセンションとかインディゴなんちゃらとかの人たちと。
あっ、一部のファンタジーとかSFとかとも近いか? うーむ、ニューエイジ系?
なんなんだろう。
あと、TAKESANちでコメントを書いていて、この話題(極端な方)とも関連があるような気がしたのでメモ。
コメント:
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_f244.html#comment-50215845
そこで引用したシュライシャー講演(PDF):
http://www.p.u-tokyo.ac.jp/coe/workingpaper/Vol.1.pdf
ところで、カテゴリー分けするのもなんですが、ポピュラーアートになるんでしょうね。名前は似ていますが、50〜60年代のポップアートとは対極をなすのが面白いです。ポップアートもそうですが、メッセージの多い前衛芸術はやりたいことをやりつくして自らを解体して消滅してしまいましたね。未だにそれらしいことをしている人もいますが、数十年前の繰り返しで新規さはありません。対照的に根強いのがポピュラーアートではないでしょうか。ラッセンに大枚を払う気にはなれんということですが、結構商売になっていたわけです。その一方でデュシャンの便器に大枚を払うのは美術館ぐらいのものでしょう。
それで、絵というものはあまり批判になじまないのではないかという気がします。仮に写実的な絵が良いという前提があれば、デッサンが狂っているという批判も可能ですが、どのような絵が良いかは作家が決めているんですから。好きか嫌いかしかないんじゃ無いでしょうか。ところが、芸術掛かってくると、絵の背景のメッセージを問題にするのですね。一昔前の現代芸術なんて、すごい長い思わせぶりな題名がついていたりして。でも、そういう議論は不毛ということが分かってきて現代芸術は消え去ったのじゃないかと。残ったのはメッセージ抜きの絵柄だけで、私はそれが一番好きです。デユシャンにしてもウォーホルにしても、メッセージだけで成立しているような気がします。作品は便器だったり、単なる写真のコピー版画です。それを芸術作品と称した行為が芸術であるわけで、作品自体は何も面白いところはありません。その方向に突き進んだ結果、作品をつくることをやめハプニングなどの行為に至って解体してしまったわけです。そういう意味で、いまだにウォーホルの抜けがらの作品を欲しがる人がいるというのは骨董品趣味ではないかと言う気がします。それに比べれば、いまだにラッセンを欲しがる人は本当に絵が好きなんだなと感じます。
ラッセンにしても、うさんくさいメッセージが漂っていますが、それを無視して絵柄だけみれば好きになるかも知れないし、それを批判される言われはないと思うのですね。私自身はあの色合いは嫌いですが、嫌いというのはある意味インパクトを感じていて好きの裏返しでもあるんですね。意図的に嫌悪感を狙った絵も沢山ありますしね。
とりとめのないコメントですが、絵の話はそういうものだと思います。絵を見ないことには始まらない。
こんなぐだぐだにまで反応いただいて、ありがとうございます。
ご指摘を受けて改めて考えましたが、こういうネガティブなイメージだけでの物言いは、たとえば「ゲームなんて低俗なものは」という(言外の)前提に基づいたノスタル爺の印象批判レベル、俗流若者批判レベルかもしれません。というわけで、それとわかるような言明を冒頭に追加しておきます(言っとけばいいってもんでもないですが、ないよりはましでしょう)。
確かに「ああいう絵を好む人は」という話は、くくり方が乱暴すぎて不毛ですね。
絵画に限りませんが、創作に対して「行き着くところは好悪だけ」という考え方はありだと思います。作品論やジャンル評論が無意味とまでは思いませんが、ある種の現代美術が理解不能で「お題目をありがたがっているだけじゃないか?」と思わせる作品群があるという点については同感です。
ラッセンやヒロ・ヤマガタを、それと同レベルだとは考えていませんが。
正当化するつもりはないのですが、こうした言及が「批判」たりうるとは夢にも考えていません。
時代の空気とかある種のベクトルとかについての理解しがたさや気持ち悪さ、居心地の悪さを感じる……といった「立場表明」ぐらいですかね。まあ、ぐだぐだなんで、そんな立派なもんかよ、よ言われれば、すいませんと言うしかないのですが。
あ、いや、私のコメントもぐだぐだな感想でして、こういうのも好きなもので。
どちらかと言えば、引用されていた記事への感想でしたね。
ところで、ラッセンの絵って昔のみやげ物やで売っていた富士山の絵に雰囲気が似ている感じがします。今はそんな人はいませんが、昔はそれなりに売れていて家に飾っていた人も多かったような。ありきたりのくくり方をすれば、キッチュの一種となるのですが、価値観は抜きにして。