デバッグ不能な遺伝子コード。「それは基本仕様です」(小学校笑いぐさ日記 2008-05-04)
技術開発者さん発(だと思う)の「人間の基本仕様」という考え方を引きながら、いろいろな思考実験をされている。たとえば
例えば、“相手を呪う方法”について、
「藁で花輪を作って自分の家族の写真を入れる」
と、
「藁で人形を作って相手の髪の毛を入れる」
二つの説明があったら、私たちは、後者のやり方に圧倒的な“説得力”を感じます。(よね?)
それはなぜなのか。
科学的な妥当性とか実効性はどちらも等価(っていうかゼロ)のはずなのに。
でそれが文化依存じゃないよね、というような話だとか、ほかにもいろいろ。
さらにハトも迷信を信じる(スキナー)とか、差別と偏見に関する心理学実験だとか、有用な知見もいっぱい教えていただいた。漠然と思っていたことが裏付けられる部分があったり、ええっ、そうなのかあ、ってことがあったり。刺激的。
で、コメント欄でお話ししていて、「おお、それはオレも不思議に思っていたよ」ということが話題に出ましてん。以下、その話。
泉鏡花の『夜叉ケ池』の話なんかした後で、
リンク先にあった
「祈りを捧げないと太陽が昇らない」
って、アステカの人はそう信じていた(太陽を昇らせるために生贄を捧げていた)わけですが。
しかし、それが何かの実体験を元にしたとは思えない……というか、信仰が成立する前、生贄を捧げなくても太陽が昇っていた期間があったはずなのに、なんでそんなことを信じ始めたのか不思議に思います。filinion 2008/05/05 16:09
うんうん。ぼくも「起きなかったできごと」に関する呪術っていうのがありそうに思っていて、なんとなく不思議に思っていた。危険回避の呪術なんか、そういう微妙さが引っかかる。「その呪術の効力で危険が回避されたって、どういう条件がそろうとそんなふうに考えちゃうんだろう」なんて。
ひょっとすると、「わかる呪術」のコメント欄(2008年05月03日 07:51)でご紹介した、「泣き言メイン(琴子のセンス・オブ・ワンダーな日々)」の2つのエントリ(「水からの伝言:リターンズ 〜似非科学は何故消えないのか:文化人類学編〜」と「宗教学(原始宗教の成立について)」)に、なんかあったような気がして読み返してみたら、「反復呪術」ってのがあった。フレイザー以後の呪術研究の話の中に出てくる。
例えば、ジンクスなんて言うのがあります。「○○をしていたときに△△が起こった」だから、「△△に成りたいときは○○」をすればいい。と言う考えです。去年辺り有名に成った「ハンカチ王子のハンカチ」なんて言うのはこのハンカチを持っていた人が幸福になったからこのハンカチを持てばなんか良いことがあるんじゃないか? と言う考えが根底にあるわけです。このような呪術のタイプを「反復呪術」と言います。つまり、二度あることは三度ある。と言う考え方ですね。
ぼくやfilinionさんは、「反復呪術」ということばは持ち出さずに、でも、なんとなくアステカのあれも「反復呪術」なんだろうな、だけど「反復」するための初回はどういうもんだったんだ、なんでそうなったんだろう、というような疑問を抱いたわけです。
◆
で、ぼくは、アステカの例だと、ぼんやりと「生け贄を捧げる風習が廃れた時期があって、たまたまその時期に日食が来て、『これは生け贄をやめたせいだ』なんて言いだした人がいて」なんてエピソードをこしらえてみたりするわけです。なんか手塚治虫のマンガでそういうシーンを見たことがあるような気がする。
まあ、そういうことがあると、生け贄とお日様が結びつかないこともないかなあというぐらいですが。
でも、これだと初回じゃない。あるいは新たに「なんでそもそも生け贄が必要ってことになったの?」って疑問が生まれちゃう。感謝のしるしであれ、災厄を避けるものであれ、供物って、なんなんでしょうね。
フレイザーのいう「類感呪術と感染呪術」(それ以後の分類による共感呪術)があって、「反復呪術」と「直接呪術」があって、っていうだけでは、なんとなく説明がつくようなつかないようなもどかしさ。
で、もうひとつ思いついたのが「結果的に集団を獣の害から守ることになったコスト」というエピソード。
たとえば野外で夜を過ごすときに、どんな体験をするか。たまたま集団の外縁に寝ていた者は、やっぱり襲われちゃったりする。何人もが襲われて、多くはかろうじて生き延びたけど弱い者はやっぱり死んじゃったりする。人間の犠牲は出なかったけど、荷物の中の食料はやられちゃったりする。
そういう体験があると、「集団を守るためには、あらかじめ生け贄とか供物を用意する」っていう経験に基づく知見が生まれるかもしれない。
獣は火を嫌がるという知見があるから、火を焚くでしょう。それが儀式でかがり火が必要な理由になったりする(状況の再現ですね)。
この辺までは「反復呪術」で説明できる。
一方で、獣の害じゃないものでも、なんか解決不能な困難に直面すると、「あれが応用できるんじゃない?」という発想も生まれるのではないだろうか。日食でも悪天候でも雨乞いでもいいんだけど、気象なんて人間が扱えない最たるもののひとつですよね。
獣という災厄と天災という災厄を、どっちも災厄だということで結びつけちゃう。「類感呪術」ですね。
というわけで、やってみると無事に過ごせた(実は、災厄が終わっただけであってもいいわけで)。
「これはやっぱり生け贄だ、供物だ、かがり火だ」ってことになる。
◆
……もしも、こういう思いつきのエピソードと似たようなことがあって、それが発端だろうというのであれば、やっぱり呪術にもそれなりに論理性はある。あるんだけど、そのレベルの論理性で納得されちゃ困るよなあ、ということでもある。しかも、直接の関わりは薄くても類型として、また成功体験として「事実」がバックグラウンドにあるのであれば、「それはおかしいよ。なんで『獣が来る』という災厄と、『太陽が来ない』という災厄が一緒なのさ。獣と太陽は違うし、来ると来ないという違いもあるじゃないか」と言う人が現れても、なかなか納得してもらえないだろう。
もしもついつい関係づけちゃうのが人間の基本仕様なら、そこに区別を持ち込めるのが、有効なレベルの論理なのかもしれない。
単に「あれとこれは似ていないが本当は関係がある。しかし、これとそれは似ているが本当は関係がない。それを確かめてみよう」というまでは呪術だってやってくれたりする。「信心が足りないとあかん」とか「日が悪いと再現しない」とかいう理屈もついたりする。
そういう呪的な理屈をきちんと遵守したうえで、再現されるかどうか。その先に科学的手法というか、そんなものが生まれたのだろうなあ、とぼんやり思う。
確認のための実験をするなんてことは、おそらく長いことされなくて、「実際にやってみた」というのは、必要があったからやったに違いない。どうやら関係はなさそうだということを導きだすに至るには、おそらく膨大な犠牲があったことだろう。当たらない預言者・予言者ってことで殺された人もいるだろうし、無為に生け贄にされた人もいただろう。
ぼくは、呪術にも論理がある、だけど科学(自然科学だけではなく)のいう論理とは隔たりがあると漠然と感じていた。その隔たりは、実証性とか精度とか、そういうことなのかなあ、と思いを巡らしていたりもした。だけど、上述のようなエピソードを思い描いてしまうと、その隔たりっていうのは実は。無為に費やされたコストだ。時間であり、経験だ。その隔たりに累々と横たわる生命や悲嘆や絶望や……そうしたものをコストと呼べるなら、そのコストは計り知れない。
◆
うーむ。
十代のころのように感傷的になってしまった。『夜叉ケ池』を読み返したせいかな(汗
呪術という箱のふたを開けると、そこになにが入っているのか、実はわかり切っていたことではある。だけど、呪術が実は「ある種の論理なのだ」と気づき直しただけで、そこに見えるものが違ってしまったようだ。
「科学も思想の一つに過ぎない。その意味で科学と呪術は等価だ」という立場は、論理としては間違っていないのかもしれない。でも、それを肯定しても否定しても、不気味なことです。なにが不気味なんだろうなあ。前述のようなコストによる重み付けをすることもできるし、しないこともできるという人間そのものが、かなあ。
◆
さて、江原の向こうにオウム真理教の影を見たり、『水からの伝言』の向こうにオカルトの影を見たりするのは、類感呪術でしょうか、ただの心配し過ぎでしょうか。
人類に備わったバグ? 暗黒面? デバッグはできない? むー……。
タグ:呪術
どこまでも未消化だなあ……。
ぐだぐだと考えながら書いている時間があれば、図書館にでも行って本でも読めってことか orz