付け足し(uumin3の日記 2008-05-12)
昨日の記事を書いたあたりから考えて某所でもちょっとコメントしたことなのですが、擬似科学・似非科学方面の話に引っかかっている人、そうした話の再生産をしてしまっている方々にとって、案外その話自体は「ツール」みたいなものとしてしか捉えられていないんじゃないかなとちょっと思いました。
(略)
とすれば、いくらツール(疑似科学)の部分を批判されても「自分の真意はそんなところにはなかったんだ」みたいな反応をするでしょうし、ツール自体の間違いを否定されても積極的には反論もしないということになってきます。
(略)
一番良さそうに思えるのは、科学が権威として使われ難くなるような教育、つまりその「可謬性」(間違えることもあるということ)とそれを検証できる「自己修正能」があるということをしっかり教えることではないかなと。
でも一度「権威」になってしまったりすると、それを自己否定するというのは難しいことかもしれませんね。真摯な科学者ならできるだろうという望みもありますが。
以下の文章は基本的にコメント用のままです(エントリにすることにしたのでちょっと追加しましたが、リンクや引用をちょこちょこ足した程度です)。手抜きですいません。
今日はトラックバックが届くかな。届くといいな。
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こんにちは、またお邪魔します。
>その話自体は「ツール」みたいなものとしてしか捉えられていないんじゃないかな
そもそも結論は先にあって、それに合致する補強材料だと思っておかしな話にも無批判に飛びつく……というようなケースですよね。おっしゃる通りで、そうした用いられ方は、ある種の典型だと思います(そういうケースばかりではない、というのも悩ましいところですけれど)。論拠であるかのように引き合いに出された疑似科学・ニセ科学的な「物語」を否定しても、それだけでは事態は変わらないだろうというご意見にも同感です。っていうか、そういう例がこの正月にも話題になったばかりです(今も一部では話題になり続けています)。
阪大の菊池くん(kikulog、ニセ科学関連文書)や山形大の天羽氏(事象の地平線、水商売ウォッチング)、学習院の田崎さん(「水からの伝言」を信じないでください)といったニセ科学問題に言及されている方々やその周辺では、「信じたいものを信じる」とか「自分に都合のよいものを信じる」という態度として言及されることが多いかと思います。
おそらく、すでにお読みだと思いますが、田崎さんの書かれた「『水からの伝言』を信じないでください」の、下記辺りにも出てきますよね。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/#10
上記URL〈科学的な「事実」よりも大切な「真実」があるのではないですか?〉と、その下の〈このページを読んで、「水からの伝言」を信じている人の考えが変わるだろうと思いますか?〉のどちらも、同じような観点から書かれたものだと思います。
こうした場合、論者は自動的に「不都合な真実」には目をつぶることになりがちなので、沈黙したり、逆切れしたり、論点をすり替えたりすることが大半です。どういう理由であっても反論は受け付けないという反応さえあります。
もっとも個々の実例に当たると、それに加えて、自然科学や科学者に対するステレオタイプ、極端な自然志向、未科学との混同なんていうのも出てきます。自然科学の立場からだと、問題点として指摘するのもそこら辺どまりだったりもしますが、文系(?)からの指摘としては、認知のゆがみとか確証バイアスとか、二分法の誤りとか、規範としての正しさと事実としての正しさの混同とか、まあいろいろなモツレが錯綜しています。
なんていうか、疑似科学・ニセ科学的な話の信奉者(や、それに近い状態の方)とのやりとりは、誤謬と詭弁、認知心理学といったモツレのサンプル展示会みたいな様相を呈することになるわけです。さらに科学哲学だとか相対主義の是非とかいった話になることもあります。ぜんぜん「その話は自然科学の知見と矛盾しないか」といった話ではないことの方が多い、と言ってもいいかもしれません。
もちろん、疑似科学・ニセ科学に親和性がある人が、みんなロジカルであることや根拠に基づいて考えることを軽視する人ばかりだというわけではありません(実は「親和性がある」というと言い過ぎなんですが、うまい言い方が見つからないのです。一方の極にはハマる人がいるわけですが、ツールとして使おうとするような、ごくゆるいビリーバーもいれば、疑似科学・ニセ科学的な主張を批判することに懐疑的という程度の人もいて、実にいろいろなので)。
たとえば、黒影さんという方は、以前「科学というモノサシ」というエントリを書かれました。
http://blackshadow.seesaa.net/article/80989429.html
黒猫亭さんは「自らの伝言」というエントリを書いておいでです。
http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2008/01/post_d362.html
(もちろん、この件についてほかにも有用な言及は、書籍も含めてたくさんあるでしょうけれども、まずはパッと思い出せた上記の2つだけ)。
疑似科学・ニセ科学的な話を自分の主張に援用しようとされる方には、それをとっかかりに、確認可能な事実に基づいて考えることの重要性であるとか、前述のような誤謬と詭弁、認知心理学といったモツレの話をベースにして語りかけられることが多いというのが、ぼくの印象です。
ぼくの周辺では、そもそも素朴に信じちゃっただけの人が言及されるケースをあまり見かけないんです(世間にはあるのでしょうね。はてブのコメント欄とかもそうなのかな?)。やっぱり言及されるのは、単に信じた話ではなく、「疑似科学・ニセ科学的なものを根拠に持って来たおかしな主張」で、そこへの対抗言論や絵解きのような形が多いんですよね(そうした話題では、ぼくは上記以外にTAKESANさん、poohさん、NATROMさんのブログに学ぶことが多いです)。ですから、そこら辺のモツレをすっかり抜きにした、単純な「それは科学的に間違っている」式の言及は、ほとんど見たことがないような気さえします。
おそらく、多くの方のねらいが論者の説得にないからでしょう。その対話を見た人に「なぜこういう誤った論理展開が起きていて、どうしてそれが一定程度はもっともらしく見えるか」を知ってもらい、波及を防ぐ効果の方を少し期待しているわけです。
科学の可謬性については、誤解が絶えない部分のひとつですね。
下記エントリは、きくちくんの講演を聞いた
http://blog.goo.ne.jp/hamarie_february/e/1c81ce6a30f42bb4609813c299ec7544
ここでは、きくちくんが言ってもいない「『科学の無謬性』という間違い」が問題にされています。
【2008/12/10追記:これは全然正確な紹介じゃなかった。実際には「きくちくんが言ったかのように誤解される表現をしていて、問題にされた」のでした。本来、「ニセ科学を批判する者は、科学の無謬性を信じているかのように言われることがある」例として紹介するのはおかしかったわけです。内容を再確認せずに、かつて読んだ記憶からリンク&紹介してしまっていたと思います。ブログ主に指摘されるまで、自分の誤読ないし記憶違いに気づきませんでした。修正するとなると文章を大幅に書き換える必要があるのでご報告に留めますが、申し訳ありませんでした。また、別の適切な例を示せればよいのですが、いざ探すとパッと出てこない。併せてお詫び。いろいろすいません。説得力ないなあ、とほほ】
コメント欄できくちくんに「逆のことしか言ってないよ」と言われてしまっています。
「科学の無謬性」などと僕はひとことも言っていませんし、実際それは僕の主張とはまったく逆です。
もちろん、科学は無謬でも万能でもありません。まともな科学者なら、当然そう考えているはずです。
当日も「科学に間違いはつきものであり、むしろ科学は間違いによって進歩するものだ」という趣旨のスライドを見せました。Unknown (きくち) 2007-02-05 01:40:33
僕はかつてある書評で「科学は間違うがニセ科学は間違わない」と書いたこともありますし、「科学は無謬ではない」ことを繰り返し強調しています。これはかなり本質的な問題であると認識しています。Unknown (きくち) 2007-02-05 10:57:27
きくちくんが書いているように、「まともな科学者なら、当然そう考えているはず」なのですが、世間のイメージはそうではないようです。そこで議論に参加している誰もしていない主張に反論するといった構図(わら人形論法の誤り)は、この問題にまつわる議論では実に頻繁に目にします。おそらく、「疑似科学・ニセ科学的なものを批判する人は、科学の無謬性を信じているのではないか」→「それは誤解なのに」→「きっとそうだ」といった思い込みが生じやすいのでしょう。ステレオタイプの問題かもしれません。
もっとも、批判的な立場をとる者もさまざまです。以前、ちょっとお話しした方は「以前の職場で、血液型性格判断を話題にする者を、頭からバカにするような風潮があって、それは問題だと感じていた」といったことをおっしゃっていました。そういう殺伐としたケースも、おそらくあるのでしょう。いや、そういった場所がたくさんあるのかもしれません。
人によって立場はさまざまですが、上記に挙げた方々は、「おかしな話でも、それを信じることは否定しないが、意図的に広めようとしたり、それを論拠にする行為は問題にする」といった点は共通していると思いますよ。別に明言されてはいないでしょうけれども。
もちろん、こういう自分だって、わら人形とか、確証バイアス、認知のゆがみといったものから自由なわけもありません。せいぜい慎重にしているつもりではありますが。
ただし、継続的に疑似科学・ニセ科学関連の問題に言及している方々は、その辺まで含めてかなりセンシティブな問題だということは重々承知されていると思います。科学どころかアカデミズムとは無縁のぼくでさえ気にしているのですから。
実のところ「『水からの伝言』を信じないでください」はうかつですが未読でした。私自身が信じていないもので、ごく真っ当なお話がされているだけだろうとついつい飛ばしてしまったのです。改めて読ませていただきましたが、よく考えてご発言されていると感じました。
ここ数日はそれこそ自分の関心のままに、批判される立場の方々の言葉よりも、たとえば「波動」という言葉のほうとかその背景として言われているものなどのほうに向っておりましたので、実際にこれだけ真面目に考えていらっしゃる方々の出発のあたりへ、やっとぐるっと回ってたどり着いたか着かないかというあたりかもしれません。
自分でこれに関わる話を書こうと思った最初期には、正直申しましてちょっとバイアスがありました。自分の狭い範囲で見聞きしている時に形成されたバイアスですが、この水伝に拘ってくり返し発言されている方の一部にちょっと独尊的でまた妙にどこかしら政治的な微かなニュアンスを感じていたのです。ただ、今は全体としてみればそういう方ばかりではないということははっきり了解できたと思っておりますので、そちらのアプローチはもう考えておりません。
わかり易くご説明いただいたことを感謝いたします。
エントリの最後のあたりで権威云々の話をもにゃもにゃ書いたのは、実は「温室効果ガスによる地球温暖化論の当否」といったものが頭にあったためでした。あれこそもしかしたら科学の限界が問われているところではないかと関心を寄せているものでして、気象学者の人たちはどう動くのかが気になってああいう言い方になりました。もちろんこれは疑似科学批判の他の方々に直接問う筋合いでもありませんので、ああいう書き方になったのでしたが…
ついでに申し上げてしまうと私の専門は宗教学なんです。ですから、日頃から「宗教を信じている人は騙されている可哀想な人」という偏見には心を痛めておりまして、宗教と聞いて詐欺以外をイメージされない方とはなかなかこれからも話は通じない部分もあろうかと思っております。ただ同時に自分なりに科学好きでもあると思っておりますので、それを利用して非科学的なことを言うのにははっきり反対ですし、真面目に疑似科学の問題に取り組まれている方にはこれからも教えられるところは多いだろうとも考えています。
まあこれに関しては自分なりの関心に従ってちょこちょこ見ていきたいと思っております。なかなか有意義なほうに引っ張っていただいたようで、重ねて感謝申し上げます。ありがとうございました。
早々のコメントをありがとうございます。「わかりやすい」と言っていただけて、ひと安心しました。それと同時に、安直な説明をしたかもしれないという不安も生じますが(^^;;
関心のありかはいろいろですから、いろんな道筋があろうかと思います。別の関心から源流に遡ってみて、ぼくや、ぼくが参照している方がたと同じような感興を抱かれたということは、やはり「ツールとして採用する人たち」というのは一定程度いて、しかもその妥当性を問うても省みられないということが、別の立場からも改めて「いかにもありそうなこと」と確認されたのかな、と思ったり。
「科学は権威」どころか、「科学は権力」とおっしゃった方もおいででした。
http://shibuken.seesaa.net/article/81331477.html
「科学」をどのように位置づけるかによっても、いろいろな答えの出し方があるという面もあるのでしょう。ぼくにとっては権力というのは暴力的な側面を必ず備えたものとしか考えられないし、科学というのは「いまのところ、ほかに同程度の歩留まりが見込める思考方法が見当たらない」というようなメソッドなので、権威も権力もピンと来ない見方ではあります。しかし、そのように科学を使う人がいたのを見た方もいる、ということもあるのかもしれません。
大きな問題設定としては、ああした主張と科学との問題はごく狭い「局地戦」であって、実はコモンセンスの問題ではないかというpoohさんや黒猫亭さんの考え方に共感しています。そうじゃないと、無学なぼくが気持ち悪く、かつ迷惑に感じている理由がわからない。
なにしろ(その都度多少は調べるにしても)基本は自分の知っていることを材料に考えるしかないので、アカデミズムから遠いところにいる身としては、かなり大変なテーマだと痛感する日々です。
オカルトと信仰との関係(無関係という関係や、人はなぜ、なにを信じるのかという事柄)も、科学と宗教に関する「両立しないのではないか」とするありがちな誤解についても、しばしば話題にはなりますね。
「水からの伝言」については、中国古典文学や言語学の立場からの論考や、説話や呪術としての構造の読み解きもありました。道徳や教育としての妥当性についての議論もありました(「基礎知識」の資料編から、その一部にたどれます http://kameo.jp/mizuden/link.html )。
宗教学の立場からは、ああした主張や賛同者について、どのようにお考えになるのか、機会があればお聞かせ願えれば幸いです。
「学生さん」はじめ、私側にいろいろ事実誤認がある模様。
http://hamarie.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-1331.html
「学生さん」と書いてしまった部分は修正したけど、もちろん本質的な問題じゃなくって。
読み返すと、ブログ主は「きくちが科学は無謬だと言っていた(あるいは、そのように聞こえるように語った)」という主旨でエントリを書いたわけではありません。これはぼくが「確か、このエントリはそういう内容だったはず」と記憶を捏造しちゃって、そこを再確認せずに引っ張っちゃったのかな。多分、そうなのだと思う。
ううむ、不注意。
本文には注釈を追加しておきます。ボク自身のバイアスのせいもあるのかもしれない。とほほ。