について、TAKESANさんとpoohさんが言及しておいでです。
説明出来る、使える(Interdisciplinary 2008年5月14日)
技術とニセ科学(Chromeplated Rat 2008-05-14)
あまりみんなで同じエントリについて書くのもためらわれるのだけど(またフルボッコとか寄ってたかってとか言う人もいるだろうし)、まだ出ていない論点もあるようなので、ちょっとここでも考えてみます。
#応答をいただきました。
#「大半の疑似科学は技術である」の続き。(IHARA Note 2008-05-15)
#ぼくはまだ、どう考えたらいいのか、頭ぐるぐる状態です。
#が、下記をお読みになる際には合わせてご参照ください。
tiharaさんのこのエントリについて、ぼくは、すでに憲法9条と911陰謀論をめぐって3のコメント欄で引き合いに出したり、それ以外にもはてブのコメントで「工学や医学の人に、しばしば彼岸に旅立たれる方がおいでになるのは、そのせいなのか?」なんてメモっていました。でも、ここでは、それとはまたちょっと別の観点からのお話です。
科学はなんらかの現象を「説明できる/できない」で語るものだ。他方、技術は「使える/使えない」で語るものだ。まるで文脈が異なる。
(略)
技術に対して「いつかは証明されるかもしれない」という議論は成り立たない。「これは使える」「これは使えない」という議論が基本だ。その延長上に「これは改良すれば使えるはずだ」とか「改良できない」などがある。「水からの伝言」は今のままでは「単なる使えない技術」にすぎない。どう使えばいいのかが分からないからだ。もしそれが可能なら、使いやすく改良されることを願う。
科学と技術はもともと別々のものだった。それが融合したのはかなり最近のことだ。私は、この二つをもう一度分離すべきなんじゃないかと思っている。
このtiharaさんのエントリ、「どうやって使える/使えないを見極めるか」が入ってませんよね? 違いますか? 技術って、その見極めを抜きには成立しないですよね? そして、その点において技術と科学はクルマの両輪のような関係にないでしょうか?
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以前、きくちくんと「科学的に確かめられたって、どういう状態か」なんて話をしたときに、ぼくが「原理がわかってること」を含めたら、「原理や機序がわかんなくてもいいんだよ」と教えてもらったことがあります。「こうすればこうなる、ということがちゃんと確かめられていればいいわけ」というんです。
であれば、科学も必ずしも「説明できる/できない」だけで語られるものではない、と言ってもいいのかもしれません。
もちろん、その「ちゃんと確かめる」って部分は、医療であれば臨床試験(だっけ?)とか、そういうことですよから、原理や機序はわからなくても「こういう条件でこうすると、こうなる」という説明が可能な状態であることは確かです。だけどそれは、技術もまったく同じなのではないでしょうか。
「どういうわけでそうなるのかはわからない」としても、少なくとも「どういう条件でそうなる/ならない」とか「その場合、どの程度の効果がある/ない」がかなりの確度でわからなければ、制御できませんよね。制御できなくなる限界がわからなかったなどというケースはともかくとして、そもそもまったく制御できない現象は、技術として採用されないでしょう。
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TAKESANさんちで技術開発者さんがおっしゃっていることも、そういう文脈で読むと「技術の『使える/使えない』っていう判断って、やっぱりかなり科学目線が必要なのね」となっちゃいます。
確かに技術と科学は別のものなのでしょう。それに、科学的研究、とくに基礎研究なんてのは「使えるかどうか」は度外視して行われる場合さえあります。だから、tiharaさんがおっしゃることは、科学と技術の違いのある側面を確実に捕まえておいでなのだと思います。
でも、その科学においても研究は、技術に支えられているはずです。実験技術などということもありますが、それだけではありません。文系の科学のように文献調査と論考で進める研究もあるわけです。そこには考えるための技術もあれば、調べるための技術もあります。なによりも、研究の確かさを向上させて科学の域に達するために「技術」が使われるという側面が、ありはしないでしょうか。
その研究が、科学と認められる条件を満たすためのハードルを越えるためには、やはり技術が必要なわけです。そうそう、成果を伝えたり保存したりするための技術だってありますよね。
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PISA 2006の科学リテラシーの定義を調べているときに、「生活のなかの科学技術に関する理解」みたいなこととともに、「科学的知識」と「科学についての知識」という表現に出くわしました。「科学的知識」ってのは、科学がつかんだ成果、いわゆる科学的知見のことだと思っています。「科学についての知識」は、外から見た科学、科学的方法についての理解といったことかな(この辺、詳しくはブログ「海洋学研究者の日常」さんのエントリ「科学リテラシーの構成要素」やその関連エントリあたりをどうぞ。ぼくも紹介された『PISA 2006 評価の枠組み』っていう本を借りて来て読んだりしたんだけど、大部で咀嚼し切れてないんです・汗)。
同じような意味で、ぼくらは「技術」についても、その成果(技術的知識? なんか変ですが)と、技術という営みが意味するもの(技術に関する知識?)を知らなければならないのでしょう。これは、科学と技術をごっちゃにしていては、おそらく理解が難しいに違いありません。
たとえば「技術の確かさが科学の成果を支えている」とか「科学的方法論が技術の確かさを支えている」といったことがあるにしても、全体にわたって一方が一方を支えているというような一方通行の関係ではなく、相補的なものなのではないかと今のぼくは考えています。どちらを抜きにしても、思考も記述も検証も、コミュニケーションさえも成立しないからです。
そうそう。ぼくはここでテクニックとテクノロジーを特に区別しないで書いていますが、そういう辺りのことも理解しないと技術を理解したことにはならないのでしょうね。ハードルが高いけど、がんばりたいと思います(^^;;
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あ、肝心なことを忘れていた。
技術が前述のような「制御できる」「確かさ」などといったことを求める(必須とする)ものだとすれば、うっかりと疑似科学・ニセ科学的なものを「使えるかもしれない」「使えそうだ」と採用してしまうことがあっても、その歩留まりが悪すぎれば遠からず「やっぱり不採用」となることでしょう。
「水からの伝言」が例に挙げられていますが、それが「使えない技術」なのは、なぜなのでしょうか。まったく結果を制御できないからではありませんか? 現象の再現性がないとかいうよりも、そもそも再現可能な条件がまったく示されていないのですから(ご存知かと思いますが、彼らが結晶と称するものは、シャーレの数にして50個に数個しか現れず、実験者がそのなかから「特徴的」と考えるものを恣意的に選択するということが、彼ら自身の書籍で明言されています)。
いや、全然違う理由をお考えだったかもしれませんね。というよりも、「あ」の優劣。(2008-03-30 IHARA Note)というエントリを拝見しても、非言語な音価?の評価(スコアリングというべきでしょうか)について、「水からの伝言」がヒントにならないかと、なにかお考えだったのではないかと考えています。
一見すると、音が生む物理現象に「美醜」「正邪」「善悪」の基準を求めるのが「水からの伝言」と見えることもありそうです。ひょっとすると、なにか近い問題設定をお感じになったのかもしれませんね。実はそんな話ではないのですけれども。
余談ですが、「らしくなさ」の評価というのは大変におもしろい観点だと思います。素人が素朴に考えると「らしさの極限」は「そのもの」でしょうから、そこからの隔たりで考えることができそうに思えてしまいます。しかし距離だけでなく方向も問題になるでしょうから、そう簡単な話にまとまるものでもないのでしょうね。なんて、その問題について今知ったばかりの素人が口出しをするような事柄ではありませんね。失礼致しました。
それでも、技術畑の方の感覚を想像してみると、「水からの伝言」の主張内容を知れば知るほど「そりゃあ制御不能とかいう以前の問題だ」「いくらなんでも使いようがない」といったあたりは同意いただけるのではないでしょうか。
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ここで「水からの伝言」の内容に深く入り込むことはしませんが、あの話の「技術的な完成度を高める」といったことから、一般の方が想像するであろうことを(アカデミズムから遠いぼくの想像をサンプルに)少し書いてみます。
結晶ができる条件を明らかにし、その歩留まりを上げ、必要なだけ六花弁の結晶ができるようになれば「実用化できた」「使える技術」と考えることができるかもしれません。しかし、それなら今でもコストを別にすれば可能です。中谷宇吉郎の研究成果を参照して、気相成長させればいいわけですから。もっとも、その場合、「言葉」や「思念」と関係はありません。単なる「人工的に雪の結晶を生成する装置」であって「水からの伝言」とは関係なくなってしまいます。
「水からの伝言」の主張に見合うような「技術の実用化」を目指すのであれば、なんとかして「この言葉(あるいはこの文字、この思念)の場合は、こういう『美しい/醜い』結晶」という結果を出さねばならないでしょう。しかも、工学的に結晶のでき方を制御しては因果関係が台無しなので、それ以外の方法で。なんとかして美醜の基準も考えださねばなりません。
それとも、なんらかの機器で「よい言葉」と「悪い言葉」や「よい音楽」と「悪い音楽」を判定する技術ができそうでしょうか? それを善悪判定装置や美醜判定装置として使えれば、取り調べや裁判、レコーディング時のボツ判定なんかに便利でしょうか?(もっとも、それって検閲どころの騒ぎじゃないですけど)
どうでしょう? あの話を「使えるように改良する」というのは、旗からはそんな話に見えるのですが、tiharaさんが考えておいでだったのは、そうしたことだったのでしょうか?
◆
これは想像に過ぎませんが、tiharaさんは「関心のありようが違う者からすると、疑似科学的なものからでもヒントぐらいは得られることがある」といったようなお気持ちがあり、それをご自身の関心のありかから「技術的観点」として書いてみた……といったところではないでしょうか? ひょっとすると、「頭ごなしに『なんの可能性もない』みたいな切り捨て方をするのは、おかしいんじゃないか」といったお気持ちもおありだったのかもしれません。
はてブでのご自身のコメントを拝見しても、「科学と技術の違い」を語っているように見えて、そこに仮託して「技術者の(自分の)目線と問題意識」を知ってもらいたかった、ということのように思われます。
もしもそうなのであれば、少し、あの「水からの伝言」という主張について、どんなことが論じられているか、それを、それこそ少しでいいからご覧になってみていただきたいと思います(「水からの伝言」そのものを読む必要があるかどうかはともかくとしても)。このブログのタグ「水からの伝言」やサイドバーだけでも、多くの情報への橋渡しができますのでいちいちポインターを上げることはしませんが、少し眺めてみるだけでも、決して「頭ごなし」な話はされていないということがおわかりいただけると思います。もっとも、そのうえで「何の可能性もない」かどうかは、改めてお考えいただくことになるかもしれませんが。
それにしても、先にも書いた見極めがらみのことを「逆」の方向から言い換えれば、もしも疑似科学・ニセ科学的な主張が「こうすれば確実に○○という成果が出る」「かなりなところまで制御できる」といったところまでたどり着けたとすれば、それはもう、ほとんど疑似科学やニセ科学ではないし、そのように呼ばれることもなくなるのではないでしょうか(仮に熟練が必要だとしても、それは慣れや習熟でカバーできるはずですし)。もちろん、条件や成果を確かめていくのは時間も手間もかかるでしょうけれども、「使えない」ものにいつまでもしがみつくのは、まともな技術者ではないですものね。
ただ、科学者だろうが技術者だろうが、「絶対にうまくいくはずだ」といった変に強い思いに取り付かれてしまうと、そこら辺は見極めがおかしくなる、ということもまた忘れてはならないでしょう。「昨日はうまくいった。なのに今日はうまくいかない」とか「効果があるときとないときがある。なにが違うのだろう」というときに、なにを考えてどうするか、それが大事だという点では、技術者も科学者も、その他のふつうの職業人だって、なんの違いもないはずです。
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ちなみに、前述の医療については「使える/使えない」の判断が微妙な場合があるよなあ、という話がかつてのうちのエントリとコメント欄にありました。
ググる(2005年06月20日)
「治ればいいんだよ、治れば」って、難しいですよねえ……。
おおっと、このところコメント欄までは追えていませんでした。拝見しにいきます。
なんですが、治らないので良くないのだと思いますよ。
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/searchdiary?word=%2a%5b%a5%db%a5%e1%a5%aa%a5%d1%a5%b7%a1%bc%5d
「プラセボと同等の効果はある」なら良いかといえば、「じゃあ、他のプラセボでいいんじゃない?」とも言えますよね。敢えてリスクを持つホメオパシーを選ぶのは筋が悪いと思います。
ただ、プラセボを薬の効果比較のためではなく治療に用いることについては、研究者から否定的な反応があります。
私はちゃんと追ってないので、その根拠をきちんと説明できるような理解はできてません。プラセボ効果の有名な論文である「パワフルプラセボ」の反論的な論文で触れられていたと思います。確かこれ↓。
http://content.nejm.org/cgi/content/abstract/344/21/1594
私のエントリーについたはてブに、
▼▼▼引用▼▼▼
そういえば,血液型性格判断は技術的には良い線になってきているんだよなぁ.
▲▲引用終了▲▲
とあって、なるほど、と思いました。
もちろん、ここで言われる技術とは、いわゆる科学技術のアナロジーであって、人間関係を良好にする技術、あるいはコミュニケーションを円滑にする技術、といった所だと思いますが、いずれにしても、血液型性格判断がニセ科学だとされているのは、それが反証されているのに(最大限慎重に言えば、証拠が見出されていない)主張するから、なのですよね。つまり、科学的にこう(血液型と性格には強い関連がある ※)だから、という主張。
更に、それを(アナロジーとして)技術的に役立つか、という所をきちんと考えると、それは、より広い視点に立って見れば、いくつもの問題を孕んでいるのですよね。たとえば、外国の文化で育った人には全く役に立たない、とか、差別を助長する、とか(そもそも根拠不充分なのに決め付ける訳だから)。
※メカニズム、という所に関しても、色々考えられますよね。血液型性格判断の場合は、メカにズムとしては、「血液型ごとの性格の分布に偏りがある」、というのが条件ですが、(仮にそれが成り立っていたとして)論理的には、更にそのメカニズムも考える事が出来る。生理学的なのか社会心理学的なのか、とかですね。
そういう風に考えると、どこまでの解明を考慮するか、という視点がありますよね。たとえば疫学なんかは、そこら辺の、メカニズムを棚上げにしてでも因果関係を見出す、という方法ですよね(違うかも知れないけれど)。
こういう観点からすると、「どこまでを科学と見るか」、という考え方も出来そうです。
>治らないので良くないのだと思いますよ。
おっしゃるとおりです。
もっと言えば、プラセボが効くと言われる「疼痛緩和」をはじめ、「不定愁訴」の類いなど、投薬などをしなくてもカウンセリングなどでも治る=症状が消える症状ってあるわけですよね。そういうものなら運が良ければホメオパシーでだって症状が消えてもおかしくない。
こういうものの場合、本当に「治る」ってどういうことか、という問題になっていきます。
しかし、そういう体験をして「ホメオパシー(などの代替医療)で治った」と考えてしまうと、深刻な原因(例えば致命的な内臓疾患)に由来するような症状についてもホメオパシーに頼るといった、「さらなる錯誤」に突き進んでしまう可能性がある。治療者が「これはふつうの医者に行け」と必ず言ってくれるならよいけれども、最近の通販レメディーなんかでは望むべくもない。
常識的に考えると、こういうものを技術とするならば「危なもっかしくて使えない技術」としか言いようがないはずです。
どうしたものかカウンセリングに行くのを、嫌がったりするんですよね。精神科や心療内科に行きたくないと考えるのと同じなのでしょうけど。「総合医療」とかいう看板で治療をされている場合など、そういう人でも行きやすいのでしょうねえ。
>TAKESANさん
>私のエントリーについたはてブに、
今気づいたのですが、同じ方が、tiharaさんのエントリにも同じようなブコメをされておいでです。
http://b.hatena.ne.jp/sor_a/20080512#bookmark-8552800
>血液型性格判断は使える技術になりつつあるけど,プロセス考えたら科学じゃないしなぁ.
いや、だからどうってほどの話じゃないんですけど、「あれ? これはどう考えればいいのだ?」とか思ったもので。
ひとつは、「誤読」と指摘された点からも明らかなように、少なくともtiharaさんの意図は、ぼくには全然伝わっておらず、上記のエントリはぼくなりの(かなり的外れな)解釈に基づく文脈で書かれているということ。しかも、「ああ、ここで間違えたんだ」と気づく部分もありつつ、それだけでは読み解けない。勝手に「科学への怨嗟」みたいなものを嗅ぎ取ってしまう。
ぼくの側に、なんかバイアスが生じているのかもしれない。単にぼくの頭が悪いだけかもしれないけど(汗
もうひとつは、ぼくは科学を理解していない以上に、技術ってものも理解していないのだろうなあ、ということ。どうも技術の話というよりも「世間知」などの話をされているように思えてしまうのだ。
これはおそらく、知らないものに出会うと、自分が少しでも知っているものに強引に結びつけて考えてしまうため(誤帰属だっけ?)、とかなんとか、そんなことなのかもしれない。
それから「科学的観点から批判を続けたいのでしょうか」と言われてみて、そんなこと考えたこともないことにも気づいた。降り掛かる火の粉を、知ってる言葉と最近になって勉強した考え方を総動員して考えて来た(そのなかには、もちろん「科学の方法」が色濃く入っているけれど)。
あれは「使えない」からやめときなはれという指摘は、とっつきやすいかもしれない。しかし「なぜ使えないの?」と問われたら、結局いままでと同じ説明をするしかないのではないだろうか。
あとひとつ。「大抵の疑似科学は使えない技術」ということは、使える疑似科学も理屈の上だけであれ存在し得るってことなのか。使えないものを技術だと考えていない自分、使えるなら疑似科学じゃないだろうと考えている自分がいる。ぼくはなぜそう考えているんだろう。
これまで考えたこともなかったけれども、科学に対する未科学、疑似科学・ニセ科学、病的科学みたいに、技術に対する未技術、疑似技術、病的技術みたいなものが存在するかもしれない(あー、バカなことを言っているだけかもしれない)。
「ケムに巻かれる」を体感中な感じ。アカデミズムに暗い(あ、ぼくのことですよ)というのは困ったものだなあ……。
あ、もうひとつメモ。
poohさんがおっしゃった「トータル・コスト」ってのは、毎度「酒屋の若旦那の話」のような「誰でも合理的に判断をしている。ただしコストを度外視はできないだけ」とか、先般話題になった呪術レベルの合理性の話といったあたりも、からめて考えてみなければならないのかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/tot-main/20080502/1209700699
>>「どうしておこったの?」をきちんと突き止めなくても、確実に起こることを示せば科学だと思います。
>>はてなブックマーク - 図説金枝篇を読んでニセ科学について考えた - あなたの正義は誰を殺しますか
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>それは、科学じゃないよ。「技術」って言うんだ。
ありゃ?