2008年05月15日

憲法9条と911陰謀論をめぐって4

「憲法9条と911陰謀論をめぐって」の番外編を踏まえつつ、その続き。

きくちくんが言うように、きくちゆみの存在感や影響力の大きさは「アイドル視」だけでは説明できないし、実際それだけではなく「真剣に考えて支持する人たちがいる」のだろうし、「それはたぶん分けたほうがいい」と思う。

どなたかがどこかで言われたように、彼女の「行動力」が支持されているという部分もあるだろう。
米政府不信、いや政治不信や大資本不信の行き着く先として、陰謀論自体に説得力を感じてしまう人も後を絶たない。
米政府が悪役という構図の「わかりやすさ」もあるだろう。一見すると被害者のアメリカが実は黒幕という、ちょっとした意外性もある(ちょうどkikulogで都市伝説の成立にからんで、そうした意外性と説得力の関連も触れられている)。
それこそ「真剣に考えて支持する人たち」がいるのだ。考えが浅いとかいうことではなく、確証バイアスみたいなものではないのだろうか。そこから抜け出すのは至難のわざだろう。

「きくちゆみアイドル説」を陰謀論やニセ科学と市民運動についてで引用してくれたdemianさんは、平和運動(のようなもの)の参加者ってニューエイジやなんかへの親和性が高いんじゃないかという指摘もされている(ぼくも同感。みんながみんなというのではないはずだけれども)。いや、もっと状況は危なっかしいのかもしれない。
ちょっと彼の話を引用してみる。
具体的には平和運動系とロハス〜エコ系はニセ科学とニューエイジが細かく入り込んでいてもはや「終わっている」状態に見えます。9.11陰謀論も結構広まってますし。
(略)
ちなみにそこで一番大事なキーワードは「共感」ですね。理性の大切さもわかりつつこの言葉を使っている人もいるんだろうけど、そうでない人も多いんじゃないかなあ。ある意味操りやすそうな人たちに思えて危なっかしい感じがするんです。
(略)
なんというかエコ系のロハスでスピリチュアルな人の日記を読んだりすると議論以前に反知性主義なものを感じるくらいですので、まあ、無理でしょうねえ。

ぼくには、きくちゆみ自身もまた、そうした傾向が強いように見える。いまの市民運動では「共感」がキーワードという指摘も多くの方がされていて、そこにも異論はない。
「オルタナティブであること自体がよいこと」という信仰のようなものが、下支えになっているのだろうなあ、などということも考える(新しい答えだから正しい答えだ、なんて単純なことではないというのに、ついハマるんです。ぼくもハマりましたよ、はい)。

ぼくは、そうした「つい惹かれる」ということと、「」でも書いたような「議論できない」という今の市民運動(のようなもの)の体質とか限界の相乗効果が、こうした事態を招いているという側面が大きいのではないかと危惧している。


先日、どっかのブックマーク経由で下記の記事を読んだ。

地域・NO 貧困〜名古屋行動集会(6)耳に痛い市民の声聞いて運動の進め方を工夫(日本インターネット新聞 2008/04/04)
何が参加をためらわせるのか、ということで一番に上がったのが、
・なんでも「反対」というのはネガティブで過激派に見える。
 ということでした。

 具体的には…

・「戦争」などの大きな課題には街頭で反対することぐらいしかできないので、路上に出て意思表示をすることに意味はあるが「貧困」などには反対しても意味がない。
・反対することが目的の、何かの団体に利用されている気がして参加したくなくなる。
とのことでした。

ここで言われている〈なんでも「反対」〉が、もしも「なんにでも反対する」という意味ならば、揶揄としては耳になじんだものだ。政府のやることはなんでも気に食わないとか、そういう文脈で使われて来た。しかし「具体的には」以降は、必ずしもそういう意味ではないようにも読める。
おそらく「反対」のウザさよりも、むしろ「特定の政治目的をもった団体(政党あるいはそれに準じた政治結社など)に、それと気づかずに利用される」ことの危惧の方がウェイトが大きいのではないか。危惧というよりも、うさんくささ、薄気味悪さを感じていると言った方が近いかもしれない。大学に入った当初のボクのように「政治党派というもの」に不信感をもってもいるのだろう(あー、ぼくだっていまでもそういう不信感がないと言ったらウソになるんだけど)。
これは、実際のところ「わからないことが不安」なのではないだろうか。まあ、説明すれば不安がやわらぐかというと、「丸め込まれたような気がする」という反応も想像できるが。

記事には以降、もっともな指摘もあり、また「どこまでぬるいんだ」と言いたくなるような意見もあり(驚くのは引っ張り込もうとしている人たちも、相変わらずなんだかおかしな行動をしているらしいことだ。「丁稚奉公がやってきたと勘違いする人」ってなんのことですか、ひどすぎませんか。余談めくが、先の「なにかに反対の声を上げるのは過激派」といった印象の持ち主人にとっては、「職場で待遇改善を口にすれば組合。さもなくば共産党かなんか」なのだろうなあ。それはそれでトホホだなあ)。
「運動」の周辺をどのような人が取り巻いているのか、「運動」の主体が、どのような人を取り込もうとしているのか、一読の価値はあると思う(上記の引用は、ほんの一部だ)。
おそらくは、違和感を表明している彼らは、特殊な感覚の持ち主ではない(丁稚奉公の人だって、実はふつうに時代遅れなおっさんなのかもしれない。オレが言うなって? すいません)。ごく一般的な「市民」の、ごく素朴で一般的な感想にすぎないのだろう。
ということは、一見すると「運動」の「参加者」と考えられる人のメンタリティも、そう遠くないところにあるのではないか。

市民感覚から遊離してはならないという意識は重要だ。だから「耳に痛い」と真摯に受け止めるのはよい。しかし、運動そのものが自壊しかねないような「アレルギー反応」まで素直に受け止めてしまいそうな危うさが、そこにはある。たとえば「こわい」という印象を改めるため「だけ」に、議論そのものを停止するというような。


たとえば「きつくない方がいい。無理は続かない。持続できなきゃ意味ないから」という方針が、ボランティア活動にある。おそらく、こうした「運動」の現場にもあるはずだ。それ自体は正しいと思う。しかし、当たり前だけれども「できることをやればいい」ということと、内容の妥当性や有効性は別の話だ。きつくても乗り越えないと腐敗を招く部分だってあるのだ。

実は、平和を希求するのであれ、なんかのボランティア活動であれ、社会に関わるということは「運動アレルギー」「政治アレルギー」なんかにかかっていられる状態ではないはずなのだ。
なにか外部への働きかけをすれば、当たり前だが責任が生じる。その意味では、すべての言論は、外に向かって発せられる限り、彼らの嫌いな「運動」なのではないか。誰かと協力して何かに取り組むのであれば、優先順位の選択が必要になり、調整が生じる。そこには彼らの嫌いな「政治」さえ生まれているのではないか。

オープンなネット上に独り言が存在しにくいのと同様に、運動とも政治とも無縁な言論や社会活動は、かなりレアにしか存在できないのではないか。ネット上でも「主張はするが議論はいや」とか「批判は人格否定」とか「リンクされたくない」などといった飛躍というか無理解というか、とにかく免責してほしいという覚悟のない放言が跋扈している。これ、地続きでしょう。

そう考えると、実は市民「運動」の現状というかいろいろアレルギー的骨抜き現象は、運動の弱体化などという矮小な問題ではなく、「市民そのもの」の弱体化としか考えられない。それでええんか。意志を明確に持たないと、つまり主張もし、議論も受けて立たないと、あなたの人生が誰か「明確な意志を持った人」の好きにされちゃうよ?(あ、これ陰謀論? 笑) オトナになるのがイヤだと思うのは構わんけど、世間はある年齢になったら否応なしにオトナ扱いをするのだ。そこには責任がともなうのだ(だからイヤなんでしょうけど)。


さて。
市民運動のみならず市民そのものが、モラトリアムでピーター・パンで反・知性主義なのだとすると、希望はないわけ? だったらなんでこんなもんをゴソゴソ書いてるの? 自己満足?

いやいや。すべての市民がオトナで知性を重視してなんことがないように、すべての市民がモラトリアムでピーター・パンで反・知性主義だなんてこともまた、あるわけがない。
増えてるのか? といったら、そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。だって、かつて政治運動や市民運動に参加していた人たちだって、けっこう小児的だったりしたじゃないですか。ある面では悪化しているとしても、別のある面では改善されているところもあるはず。

たとえば「怖くなくなったウンドーもどき」のなかに「議論を復活させる」ことはできないのか。多様性を重視し、共存することに理解を示す人が集まるのであれば、そこに「お互いの差を認識する」という過程を持ち込むことは、不可能ではないだろう。だってそれは彼らの大好きな「多様性」を確認することなのだから。
彼らが怖がるのは、いや、ぼくらがイヤなのはなんだろう。「声高なこと(感情を剥き出しにしてわめくような行為)」「性急なこと」「衆を恃むこと」、つまり暴力的で個を大切にしないことなのだとしたら、そこに配慮することには何の問題もない。むしろ、それは望ましい人間関係だとさえ言える。
「ゆるい連帯」が、無批判な馴れ合いや野合であっていいとは、誰も考えていないに違いない。では、それを見極めるにはなにが必要か? 対話以外の手段があるのか? ない。

おそらくぼくらは、もう一度、市民として生まれ直さないといけないという課題を抱えて戦後を生きて来た。そして、それは少しずつ進んでいる。1970年代ぐらいまで、まだ毛がはえそろっていないのに、赤剥けの肌を塩で洗うような荒療治にもみくちゃにされはした。いったんは、それでビビってしまった。
けれども、膝詰めで真摯に、そして穏やかに論を「戦わせる」ことと、一方的にねじ伏せようとするような、あるいは丸め込んで取り込もうとするような議論とが、別のものだということは知っているはずだ。「運動」「政治」「議論」といったものについてのあらぬ先入観から自由になるのは難しい。けれども、ぼくらはそんなに遠いところにいるわけではないのではないか。


あともう何パーセントかの人が、逆上した論者は相手にできないということと、議論そのものができないということの違いを自覚的に理解できさえすれば、それなりに先に進むことができないだろうか。
何パーセントかの人が、自分自身が論戦に参加せずとも、論者と論の信頼性を見極めることができるようになれば、それなりに先に進むことができないだろうか。
そこでは右とか左とかは、問題ではない。真摯に考えて対話する人を、発話をする人を、たとえばネットが生み育てているのではないか(脊髄で発言する人がどれほどいようとも)。

仮にいまの「ウンドーもどき」にどっぷりと浸かって、そこでの自己実現や癒しを求めることに熱心な人たちには大して期待できないのだとしても、そこに冷ややかな目を向けたり危惧したり悶々としたりしている、より多くの市民にはなにがしかを期待できるのではないか。

楽観はしていない。けれどもわずかな希望でも、それを捨てる必要もないだろう。こうしてどこに届くかわからない言を紡ぐことにも、少しぐらいは意味があるかもしれない。

うう。なんか恥ずかしい文章になっちゃったな(大汗
えー、自己満足かといえば、そういう部分も多々あるとは思います、はい。
まあ、ぼくにしたって言うほどろくな覚悟もできてなくて、びくびくしながらで、かなりぬるいです。自覚はあります。そうなんだけどね(^^;; それでもさ、まだ書くことをやめない。ていうか、まだやめる理由が(それほどは)ない(^^;; いいじゃん、それでも。
 
タグ:陰謀論
posted by 亀@渋研X at 05:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 渋研X的日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 憲法9条と911陰謀論をめぐって4
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