2008年05月19日

書かれていないことを読まない

忘れてしまいそうで怖いので、忘れないうちにメモ。

ネットで不毛な諍いにならないためのたった一つの方法(uumin3の日記 2008-05-16)

十数年前を見ているようだ(事象の地平線 2008/05/19)

どちらもおっしゃっていることは、「書かれてもいないことを勝手に補って読まないこと」で尽きそう。


自分でもドジってばかりのような気がする。

世間には「行間を読め」とかいう、いらん文芸読解教育もある。「なぜ作者はこう書いたのか」を読み取らせるような設問って、多いですし。だから「書かれたことだけで読み取る」のは難しくなっちゃうのかも知れない。
まあ「なんでこんなことを書くんだろう」は、余計な詮索です。でも、そう思いつつもやっちゃうんですけど。対話だと「なぜ彼はこれを言わねば(書かねば)ならなかったのか」を読み取って、そこを踏まえて語りかけないと届かない、と思い込んでいるからかもしれません。また、それがうまくいった経験があると、いよいよそのメソッドを捨てられない、なんてこともありそうです。

ただ、「空気を読む」ことを是とするのは、同じ「行間を読む」とか「書かれていないことを読み取る」の仲間だとしても、ちょっと違うような気がしていて。
「空気を読まねば」が世間で共有されると、読み手の力量に依存する度合いが甚だしくなりそうです。そうすると、低い力量に準拠せざるを得なくて、「妥当な推論」も思い込みに基づくねじまがった邪推も判定できなくない人が基準になり、どっちも等価にならざるを得なくて……。これはどうなんでしょうね。
もっとも、だからこそ「書かれていないことを(ry」となるのだな。うむ。

それはそれとして、apjさんが書いておいでの件は、舞台が「政治系ブログ」ということらしい。支持政治の世界というのは、言質を取らせない表現(ニヤリひとつとか)で真意を読み取らせる「腹芸の世界」ではないのか。と言いつつ、実は銘々が勝手に解釈しているだけだったりもしそうですが。
あ、これ、偏見ですね。ていうか、そんなの政治に限らないですね。

最近、あちこちから誤帰属やらコンカレント迷信やら「成功体験によるおもいこみの強化」やらという話を教わりました。自分の最近のエントリ「問題の近さ」も思い出しました。

みんながもっとモヒカンぽくなれば、いや、誤解を恐れずに言うならば「アスペルガーっぽく」なれれば、言葉の上での諍いは減るのかもしれない。
む? だからクリスタル・チルドレンとか言いだす人がいるのか?

ううむ、人間って難儀だなあ。

で、そういう難儀な人間のひとりとして考えると、「推測で話をするよりは、ちゃんと目に見えている範囲で話をするほうが、あぶなっかしさは減る。コストパフォーマンスがよくなる」なんてことは、ありそうです。

#ミスタイプを2カ所直した(5/20 11:22)


posted by 亀@渋研X at 23:20 | Comment(5) | TrackBack(0) | 渋研X的日乗 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする はてなブックマーク - 書かれていないことを読まない
この記事へのコメント
>亀さん

dlitさんのところでも言ったことですが、「書かれていないことを読む」とセットで「書いてあることを読まない」という問題があるのではないかと思います。

モヒカン的に言えば、現に書いてある以上それを踏まえずに物を言うという態度は在り得ないわけですが、書いてあることを平気で無視して物を言う態度というのも、公正性の観点や議論の経済の観点からの大きな問題としてあるのではないかと思います。
Posted by 黒猫亭 at 2008年05月20日 11:07
黒猫亭さん、こんにちは。
>「書いてあることを読まない」
はい、ありますね、思い当たることが自分にも(汗
多分、ほぼ同じ頃に書き込んだぼくのコメント、まさにその話だし(大汗

http://shibuken.seesaa.net/article/41791136.html#comment

いや、なんでもバイアスだとかそういう心理学かなんかで説明して済まそうというわけでも、それで免罪してくれってわけでもないんですが、意図的でも潜在意識がどうのこうのでもなくって、「人間の基本仕様」みたいなもののために起きる誤りである可能性もあるんだなあ、みたいな。
Posted by 亀@渋研X at 2008年05月20日 14:12
今日は。

dlitさんの所のコメント欄は追っていないので、これは一般論として。全然話が変わっちゃうかもですが。

「読めない事を認めない」、というのもありそうですね。「何言ってるか解らない」と言いたく無い、という感じで。どんな文でも読んでみせる、的な。だから、互いに勝手な解釈をしてしまって、全然噛み合わなかったり。
解らなきゃ訊けば良い、と思ったりもするんですけどね。無意識的だとどうしようも無いですが。

私のブログで、「意味が解らない」という文章が連発するのは、仕様です。

ちなみに私は、「どういう意図で書いたか」、「書き手の意図と離れて、どういう”読まれ方”がなされる可能性があるか」、という2つの読み方を、必ずします。

自分と相手の「脳内辞書」は絶対に一致していない、という考えを持っているのですよね。だから、近づける努力をする必要がある。それをするには、説明していくしか無い。相手の脳は覗けないのですしね。
Posted by TAKESAN at 2008年05月20日 15:02
この記事はまさに先日のあれやこれやで反省して思いついたものでした。実際知らないうちに自分が「いやだな」と思っている向きに自分がなっていたと思えたので。照れ隠しにフォントなど弄りましたが、お恥ずかしい限りです。
二番目のところなどは亀さんの態度に学ばせていただいたようなものです。頭が熱くなるとやっぱりいけませんね。

それこそ書かれたものは筆者の意図から独立して読んでいいんだという理論も読んだことはありますが、書籍と違ってネットではなかなかそうも言っていられないのでしょう。(少なくともコミュニケーションは無視していいんだ、という立場でない限りはです)
Posted by uumin3 at 2008年05月20日 19:11
>亀さん

「書かれていないことを読まない」というのは、やっぱり「書いてあることはちゃんと読む」という意味と表裏一体だと思うんですね。ちょっとapj さんのところに書いたことと繋がってきますけれど、都合の好いところだけつまんで意味を解釈してもしょうがないわけで。

まあ、亀さんが挙げておいでの例は失敗談の類ですぐに訂正されていますから罪がないですけれど、都合の悪いところは見ない・見えないという態度は、やっぱり公正なものだとも効率的な態度だとも言えないわけです。これはdlitさんのところの話なんですけれど、幾らこっちの書いた文章が長いからと言って、すでに書いたことをほとんど何も踏まえずに反論してこられると、議論というものが成立しません。

>TAKESANさん

>>ちなみに私は、「どういう意図で書いたか」、「書き手の意図と離れて、どういう”読まれ方”がなされる可能性があるか」、という2つの読み方を、必ずします。

その二つの観点というのは重要なんですよね。取り分け「どういう読まれ方がなされる可能性があるか」は重要で、オレはよく「第三者からの見え方」なんて言い方をしますけれど、読み手がいてこそコミュニケーションが成立するわけで、自分以外の人間にどういうふうに見えるか、という視点を持つことは重要だと思います。

勿論、どれだけ第三者からの見え方を意識して書いても、伝わりきらないところというのは必ず出てきますね。ですから、コメントの遣り取りなどで詰めていくわけで、ブログなんてのはコメント欄も込みで一つの言説を成している側面もあるわけです。

>>解らなきゃ訊けば良い、と思ったりもするんですけどね。

今回の問題でわかったんですが、人格批判を常套手段として人対人の対立にスライドしやすい人は、相手に確認するということが出来ないようです。何せ、論争している相手は「敵」ですから。言説対言説の論争というのは、基本的に言説は対立していても発話者同士は対立しているわけではないので、相互信頼の原則が働きますよね。

だから、わからないところがあったら相手に聞けばいい。確認すればいい。そういう意味で相互信頼があるから建設的な議論が可能だということもありますが、人対人の対立にスライドすると、そういう信頼が持てないということがあるようです。隙を見せたら負け、みたいな。
Posted by 黒猫亭 at 2008年05月21日 00:41
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